[#表紙(表紙.jpg)] 百合子さんは何色 武田百合子への旅 村松友視 もくじ  第一章 百合子さんは何色?  第二章 喫茶店「ランボオ」の色  第三章 色のなかの色  第四章 泰淳夫人の色  第五章 詩人の色  第六章 秘密の色  第七章 百合子さんは何色?   あとがき   武田百合子略年譜 [#改ページ]   第一章 百合子さんは何色?  武田百合子さんという女性の輪郭を、一般的にどのように説明してよいものか、これはなかなかむずかしいテーマだ。とくに、これまで武田百合子の存在を一度も気にしなかった人々にとって、どんな紹介がふさわしいのだろう。そのあざやかな答えはつかめない。おそらく、この一冊をついやしてその答えを探るより他にないのかもしれない。そんなことを思い巡らしたあげく、まずいちばん遠い読者へのアプローチとして、昨年の五月二十七日にこの世を去った、百合子さんの死を報じる朝日新聞の記事をながめてみることにした。  この記事のタイトルは「故武田泰淳氏の妻『富士日記』随筆家 武田百合子さんの死去」となっている。 [#ここから1字下げ]  戦後文学を代表した作家、故・武田泰淳氏の妻で随筆家の武田百合子(たけだ・ゆりこ)さんが二十七日午後六時四十七分、肝硬変のため、東京都港区の病院で死去した。六十七歳だった。葬儀・告別式は二十九日午後一時から目黒区中目黒四の一二の一九の長泉院で。喪主は長女の写真家花(はな)さん。自宅は渋谷区代々木五の一五の一〇の九〇五。  横浜市生まれ。戦後間もなく、文学者たちが集まっていた東京・神田の喫茶店「ランボオ」で働いていて、当時作家として健筆をふるっていた武田泰淳氏と出会い結婚。七六年に泰淳氏が死去した後に、それまでの十三年間にわたる富士山ろくの山荘で娘や愛猫と過ごした日々の思い出を「富士日記」にまとめ、この作品で田村俊子賞を受賞した。晩年の泰淳氏の口述筆記役としての体験などから身につけた、独特のまなざしを持った筆致で注目された。  続いて八〇年、随筆の「犬が星見た—ロシア旅行」で読売文学賞を受賞。ほかに「遊覧日記」など、優れた観察力の随筆を書いた。  雑誌「マリ・クレール」連載の随筆をまとめた「日日雑記」を昨年七月に刊行した。 [#ここで字下げ終わり]  私が百合子さんの死を知ったのは、当日の午後七時半ごろのことで、ある出版社の編集者からの知らせによってだった。そして翌朝はやく、長女の花さんからの電話を受けた。ある程度の覚悟で入院したらしい百合子さんが、あまり周囲の人に知らせないようにと花さんに言っていたため、いざとなって急に各方面への連絡や葬儀の準備をすることになり、花さんは馴れないことをいちどきにこなさなければならなかったようだが、電話の声は淡々として落ちついていた。受話器を置いた私の目に、半年ほど前に見た百合子さんの不思議な貌《かお》が浮んだ。  私が百合子さんに最後に会ったのは、「富士日記」が掲載された『海』という文芸誌での同僚だった安原顯が、中央公論社を辞めてはじめた雑誌『リテレール』の会だった。この会は安原顯を励ますといった主旨で行われ、司会の役をやらされた私は、その会場で久しぶりに百合子さんに会った。  百合子さんは、会が始まる前にやって来たのだが、苦手な司会役に緊張していた私は、百合子さんとゆっくり話すゆとりがなかった。「花子(そういえば、百合子さんは、花さんのことを花子と言っていた……)がいい人にめぐり会ってよかった」としきりに言っていたが、かつてのような弾んだ会話のやりとりができなかった。これは、私の緊張もさることながら、百合子さんがどこかエネルギーの失せた感じだったせいかもしれなかった。百合子さんは、舞台の袖にいる私の近くに立っていたが、酒を飲めないらしくグラスを持っていなかった。会が進み、最後に安原顯が挨拶した。それを見上げていると、百合子さんが「あのねえ……」と言って私に近づいて来た。何かひとセリフを思いついたときの、百合子さんの独特の表情だった。百合子さんの話に耳を傾けようとしたが、ちょうどそのとき安原顯の挨拶が終り、私はちょっと待って……という仕種をして舞台へ上った。そのとき、ポカンとして私を見返した百合子さんの目は、抱いている愛猫を誰かに奪われた幼女のごとく、弱々しく虚ろだった。  その目が気になりながら、私は会のお開きを告げる挨拶をした。そして、ふたたび舞台の袖へもどってみると、そこに百合子さんの姿はなかった。百合子さんを目で探そうとしたが、苦手な司会役の緊張からか、私は舞台から降りたとたん強い嘔吐感におそわれた。そして、洗面所からもどったときには、百合子さんはすでに帰ったあとだった。それが、百合子さんとの今生の別れとなった。 (あのとき、百合子さんは何を言おうとしたのだろうか……)  花さんからの電話のあと、半年前の百合子さんの不思議な貌を思い浮べながら、そんなことを思った。あれは、特別に大事なことを言おうとしているというより、何かについての極め付の名セリフを思いつき、それを伝えようとしていたのを私にスカされた表情だった。  だが、あとになってそう思うのかもしれないが、あの日の百合子さんはたしかに極端にエネルギーが失せた感じだった。だからこそ、何かを言おうとしてスカされたあとの、ポカンとした貌が強く残っているにちがいない。そんなことを思い返しながら、私は翌日に行われた百合子さんの葬儀に参列するため、中目黒の長泉院へ出かけて行った。  葬儀委員長は、作家の埴谷雄高氏だった。埴谷氏が武田泰淳氏とお互いを認め合う親友であり、百合子さんにとっても心強い相談相手であったことはよく知られていたから、埴谷氏の弔辞がどんな内容なのか、私は強い興味を抱いて坐っていた。  全的肯定者……埴谷氏の弔辞の中で、この言葉がまず耳に残った。埴谷氏と知り合った頃の武田泰淳氏は、否定的なニヒリズムを片手に抱えていたが、百合子さんという一種独特の全的肯定者がそばにいたことから、その否定的ニヒリズムが部分になり、しだいに大きな武田泰淳的世界、武田泰淳的宇宙の肯定性の中に包含されるようになったと埴谷氏は述べられた。そして、武田泰淳氏のそばにいて口述筆記や清書をしていたことが、のちの百合子さんの文章に影響を与えたという文芸評論家の意見を、埴谷氏ははっきりと否定された。つまり、百合子さんにはもともと文学者としての天賦の才能があったというのが、埴谷氏の見定めだった。  私には、埴谷氏の弔辞にあらわれた百合子さん像が、ほぼ納得できた。葬儀のあと、私は赤瀬川原平氏、堀切直人氏、それに筑摩書房の人々たちと中目黒駅附近まで歩き、まだ開店していない小料理屋に頼み込んで二階の座敷をあけてもらい、ああだこうだと百合子さんをしのぶ話を交わし合った。ビールを飲み、百合子さんの思い出話に花を咲かせているその場のありさまは、死者を悼むといった趣きからは程遠かった。彼女をサカナにしてビールを飲み、宴会をやっているという感じだった。そこに居合せた面々が発する言葉の中に百合子さんは生き生きと躍動していて、百合子さんがこの世にいないという実感が、誰にもないという空気でもあった。  その場で語られる百合子さんは、すべてあかるく輝やいたイメージだった。私もまた、百合子さんについての、百合子さんらしいエピソードを浮ぶままに話していたが、埴谷氏の<全的肯定者>という言葉と、半年前に会った百合子さんの不思議な貌が、ビールの酔いの中でかさなり合い、百合子さんという存在はいったい何色だったのかとの思いが、頭の中で大きくふくらんでゆくのを感じていた——。  私が文芸誌『海』の編集者として百合子さんに初めて会ったのは、一九六九年の一月だった。  この年新しく創刊された『海』編集部に配属された私は、武田泰淳氏の連載小説「富士」の担当を編集長から命じられていた。『海』は、六月に発刊記念号を出し七月から月刊誌としてのスタートを切ることが決っていて、「富士」はできることなら創刊号から連載したいというのが、編集部(といっても編集長、次長、それに平《ひら》の私という小部隊だったが)の希望だった。武田泰淳氏と編集長との相談で「富士」というタイトルは決っていたし、七月の創刊までにはとりあえずのゆとりがあり、七月締切のスタートはまちがいないというのが、『海』編集部の計算だった。そんな安心感があったからこそ、編集長は当時の私に、大物作家武田泰淳氏による連載小説の担当をあえてまかせる気になったのだろう。編集長は、「富士」の参考資料などをすでに武田泰淳氏に渡してあり、連載の準備は着々とすすんでいるといった感じだった。そしてその年の一月のある日、私は担当者としての挨拶と打合せをかねて武田家を訪れたのだった。  武田泰淳氏の住む赤坂コーポラスという名のマンションは、赤坂の氷川神社の近くにあった。マンションの門を入ったところの空間が住人の駐車場にもなっており、つねに何台かの車が駐車していた。門の左手に管理人の小屋みたいなものがあり、中にいる人にかるく会釈をして歩いて行くと、正面にマンションの入口があり、そこの階段を上り左へ曲って三つか四つ目が、武田泰淳氏宅となっていた。  鉄の扉の外側に木製の鎧戸みたいなものが取り付けられていて、わざと稚拙に書いたような「武田」の文字が、表札代りの煤けた木板の中に沈み込んでいた。そのよこに「御用件のおもむきはあらかじめお電話にてお願い致します。お電話は午前中におかけください」という文字が、やはりわざと稚拙に書かれていて、中の住人の気分が何となく伝わってくるような気がした。  呼鈴のボタンを押したが応えがなく、もう一度押そうとしたとき「はい」という女性の声が聞えた。控え目で静かで穏やかで、声の主が人見知りであることを想像させるひびきだった。扉を開けて名乗ると「どうぞ」と言われたが、室内のあかりが逆光になっているせいか、迎えた女性の顔の輪郭は判然としなかった。ただ、こちらをちらりと見たその目に何億分の一かの怯えのようなものがからみついていると感じた。ドアの真ん中の小さい覗き穴から外へ目を凝らしている自閉症の少女……そんなけはいもあったが、部屋の中に入るとそれが嘘のように消えた。この日から私は何度もこのマンションを訪れることになったのだが、ドアを入るときに受けるその印象はずっとつづいていた。  そういえば、このニュアンスは武田泰淳氏からも伝わってきていたような気がする。  応接セットに腰をおろし、百合子さんが出してくれた茶を啜っていると、二階から咳ばらいと発声練習のごときうなり声を控え目に発しながら、武田泰淳氏が降りて来る。立ち上って頭を下げ時候の挨拶などをしているあいだに、百合子さんが武田さん用と客用の罐ビールを持って、仕切りのある台所から潜り出て来る。武田泰淳氏は、「ああ」とか「うう」とか私の言葉に相槌を打っているのだが、その目は決して私に向けられず、どこかよそよそしく重苦しい表情のまましばらくの時が過ぎてゆく。ところが、罐ビールをあけて二口か三口飲んだあたりで、それまでのぎくしゃくとした固い態度が不意に一変し、何時間も前から飲みつづけていたような楽な空気が生じるのだ。  この奇妙な空気の急変は、その後に武田家を訪れるたびにかならず感じたことだった。ドアを入るときの百合子さんの怯えのけはい、応接セットで向い合った武田泰淳氏とのあいだの重苦しい空気……そのまま時が進んでいったら窒息するのではないかと思い始めたとたん、そのけはいや空気が手品のごとく消えてしまう。このイメージは武田泰淳氏と百合子さんのあいだに生れた武田花さんからも、何となく感じられるのであり、もし武田家に家風というものがあるとしたら、これもその一つではなかっただろうか。  担当者として最初に武田家を訪れたとき、いったい武田泰淳氏と何を話したのか、くわしいことは忘れてしまった。ただ、私はそのとき国枝史郎の『神州|纐纈城《こうけつじよう》』なる本を持って行ったはずだ。もちろん武田泰淳氏が『海』に連載する予定である「富士」の参考資料として持参したのだったが、もしかしたらこれが「富士」連載のスタートが大幅に遅れることになる一因ではなかっただろうか。 『神州纐纈城』は、いわゆる伝奇小説であり、あまりに奔放な幻想を拡大しすぎたせいか未完の小説となっている。ただ、この作品の背景につねに富士山という存在があり、人間の形を崩す宿命の病いやおどろおどろしい物語との対比を成しているように感じた。つまり、美の象徴たる富士山という存在がこの作品における一方の主人公であると読めなくもない……「富士」の担当者となった私は、そういう思い入れのもとに作者武田泰淳氏の参考資料にと、いまにして思えばまことに大胆な構えをつくって訪れたのだった。  あの頃、富士山を美しさの頂点とするセンスに、私は多少の抵抗感を抱いていた。あの嘘くさい美しさを素直に受け止めるのはおかしい……これは、東京生れながら静岡県の清水市で日常的に富士山をながめて育った私の屈折した反感でもあり、六〇年代後半に吹いていたいわゆる�反逆の風�の影響であったのかもしれぬが、とにかく富士山の美をすんなりと評価するセンスに与《くみ》するのがいやだったのだろう。 『神州纐纈城』を、そのとき武田泰淳氏はまだ読んでいないと言っていたが、強い興味を抱いたようだった。それは私が本を持参したせいというよりも、その少し前に武田泰淳氏は安岡章太郎氏から『神州纐纈城』のことを聞いていたようで、この機会に読んでみようと思い立ったのだろう。安岡氏は「富士」という作品を意識したのではなく、この作品に武田泰淳氏の世界とどこかで通い合うものがあるのではないかという意味ですすめたようだった。『神州纐纈城』への武田泰淳氏の強い反応は、担当者としての私に弾んだ気分を与えた。  私は、盲人にとって富士山とは何か、銭湯に描かれる富士山の世界、東京のビルの間からながめる遠い富士山など、頭に浮んでくることを武田泰淳氏に向って次々と話し始めた。武田泰淳氏は、変に熱を込めて喋る私を掌の上で打ちながめ、面白そうに笑っていた。ときどきビールのツマミを持ってキッチンから出てくる百合子さんも、武田泰淳氏と同じように、面白そうな笑顔をつくっていた。そして、ビールの酔いのせいもあり、私は初めて訪れた武田家で、かなり興奮して喋りまくって帰ったのだった。  だが、その日の私の興奮が「富士」のスタートを遅らせる結果とつながってしまった……いまになって辿り直してみると、そういうふうにも思えてくるのだ。  それまで、編集長は富士山の植物に関する写真集や単行本、五街道の研究本などを武田泰淳氏のところへ持って行き、また河口湖畔に住む農民作家中村星湖氏への取材を決めるなど、富士の見える山荘をもつ武田泰淳氏の手による、山荘日記のごときものをイメージしていたようだった。そこへ、若い担当者たる私が『神州纐纈城』をたずさえて勝手な目論みを口走って帰ったものだから、心優しい武田泰淳氏は困ってしまったのではなかろうか。  これまで準備をかさねた編集長の努力を無にするのはしのびないし、せっかく自分勝手に盛り上っている若い担当者の熱をいきなり冷ますのも不憫だし、というわけだ。しかし、実情はこうだったのではなかろうか。作品の構想はすっかり出来上っていたが、それに向って腰を上げるには機が熟していない。にもかかわらず『海』創刊号の締切は迫ってくる……そんな中で、武田泰淳氏は編集長と私の溝を上手に利用して、書き始めの引きのばし作戦に組み込んでしまったのではないかという気がするのだ。もういちど仕切り直しをしなければ書き始められないな……武田泰淳氏のそんないたずらっぽい余裕の笑顔がそれを証明していたのかもしれなかった。そしてあのときの百合子さんの表情にもまた、虚々実々の駆け引きを愉しむ気分があらわれていたのである。  結局、連載小説「富士」は十月号からのスタートとなり、予定より四か月も遅れたのだが、担当者の私にその遅れは贅沢な時間を与えてくれた。原稿をもらうこともなく、私は何度も武田家を訪れ、武田夫妻とともに河口湖の山荘へ行き、河口湖畔の中村星湖氏の家をたずねたりした。  遠出のときは、百合子さんが運転する車の助手席に武田泰淳氏が陣取り、私は後部座席にすわった。そうやって運転席の百合子さんと助手席の武田泰淳氏の会話を聞いていると、私は編集者の特権的な気分に浸ったものだった。  赤坂の武田家では、百合子さんの作ってくれる料理が楽しみだった。まだ独身だった私は、わざと昼頃に武田家を訪れることにして、百合子さんの料理にありつくケースが多かった。百合子さんの料理はきわめて手早いのだが、本格的な中華料理の複雑な味に仕上っていた。また、中華街で買って来るのだという鳳尾魚《ほうびぎよ》の罐詰を、ただそのまま出して皿にならべ酢醤油をかけただけのものや、カシューナッツをフライパンで熬《い》って出すといった、即席のツマミを思いつく名人でもあった。鳳尾魚は中国のシシャモみたいな魚でこれを唐揚げして罐詰にしてあり、ビールには極め付といってよい組合せだ。カシューナッツは、ただ熬るだけで別物みたいな味になり、これまたビールのツマミとして抜群だった。百合子さんは、罐ビールしか飲まない武田泰淳氏のよろこぶツマミを、独特のセンスでいくつも発見し、あみ出していたのだろう。 「富士」は、十月号からようやく連載が始まった。最初の回は「序章・神の餌」だった。人間はリスをかわいがり、ネズミを殺す……これはいったいどこからくるのだろうという問題を、山荘日記のかたちで書いた、作品の予感をはらんだ絶妙の序章だった。�神さまのおぼしめし�なる狂気と正気をテーマとする「富士」という作品のキーワードも、この序章の中に見事にはめ込まれていた。 「さて、この次の第一章がどんな内容になるか当ててみないかな……」  第一回目のゲラを持って行った私に、武田泰淳氏はいたずらっぽい表情でそう言った。百合子さんは、ビールのツマミを出しながらにっこり笑っていた。次に第一章の原稿を受け取るとき、私が想像した内容を書いて持って行き、武田泰淳氏が書いた第一章の原稿と交換するというゲームがその場で決った。第一章は「草をむしらせてください」、これがヒントだと武田泰淳氏はつけ加えた。あの武田泰淳氏とこんなゲームをしようというのだから、いま考えれば冷汗ものだ。  私は、序章におけるネズミのように色分けされ、蔑まれ、軽んじられ、駆除されるという世界を意識して、「草をむしらせてください」と言って山荘を訪れた男が、なぜか雑草を残して名のある草花をむしってしまうというような内容を、原稿用紙何枚かに書き綴って持って行った。  それを読み終えた武田泰淳氏は、 「なるほど、こういう展開もたしかにあるな」  と笑いながら言ってから百合子さんに渡した。百合子さんも、面白そうに笑いながら読んでいた。私は、武田泰淳氏が私などを相手にしてゲームを仕掛けてくれるサービス精神におどろいたが、そのとき渡された第一章「草をむしらせてください」を読み終えると、おそろしい傑作に立会っている興奮に、原稿を持つ手がふるえてしまった。第一章の舞台は戦時中の精神病院だった。戦争という狂気の時代の中で、狂人として隔離される人々、つまり異常な時代に異常者として扱われた人々の日常生活……この構造がいきなり提出されているのだ。第一章「草をむしらせてください」を読むと、序章の「神の餌」のリスとネズミと神というキーワードがあざやかによみがえった。私は、これから重大な武田作品の担当者としての時間がスタートするのかという思いを、緊張をもって受け止めていた。 「武田はね、ムラマツ君に一度くらい原稿を欲しそうな顔をしてもらいたかったなって言ってたわよ」  翌々年の六月に「富士」の連載が終ったとき、百合子さんが面白そうに笑いながらそう言った。「富士」は武田泰淳氏の長篇小説にしては、きわめてスムーズにしかも緊張感を持続して作品が出来上ってゆき、一度の休載もなく一気に完成したと記憶している。しかも、内容は序章と第一章から予感された通りの、おそろしい毒をふくむ傑作となった。このスムーズな進行ぶりには、武田泰淳氏の文学的力量の他に、三つの要素が微妙にからんでいたと私は思っている。  一つは、あの六〇年代後半から七〇年に向けて吹き荒んだ時代の風が、武田泰淳氏が書く「富士」の作品世界に投影されていたということだろう。これまで微動だにしなかった�知�の牙城が脆くも崩れ、これまで歯牙にもかけられなかった価値が突然に陽の目を見る……そんなゆさぶりが日常的となったあの季節、「富士」をつらぬく狂気と正気という問題はにわかに現実性、真実性をおびてきた。そんな時代を、武田泰淳氏は自らのレーダーでもとらえていたが、百合子さんもまた時代を感受する鏡となっていたにちがいない。時代と作品のからみ合いに加えて、時代を映す鏡である百合子さんの感受性が、「富士」という作品にリアリティと推進力を与えていた可能性は、当時の担当者である私に十分な手応えを残しているのだ。  次に、当時高校三年生くらいだった花さんの、いささか反抗期的に見えた雰囲気に、あの季節の風を受けた武田泰淳氏がこれまでと別な目を向けはじめ、そのセンスにしだいに興味を抱いていった……そのこともまた「富士」という作品の節目に強く投影していたのではなかろうか。  私は、原稿取りに行ってたまに顔を合わせる花さんから、ある日一枚のレコードを借りた。それは遠藤賢司という若いフォーク歌手のレコードで、「ほんとうだよ ほんとうだよ ほんとうだよ」と執拗にくり返す歌詞のある歌だった。何でもないようなことを、信じてくれ! とばかり絞り出すようにうったえるこのフォーク歌手には私も興味を抱いたので、 「実はこのあいだ、花ちゃんに妙なレコードを借りまして……」  と、武田泰淳氏にそのことを話した。武田泰淳氏は、私の話をふん、ふうとうなずいて聞いていたが、やがて「富士」の第三章において患者大木戸という登場人物が、「ほんとうだよ、ほんとうだよ、ほんとうだよ」とうったえつづける衝撃的な場面が描かれたのである。  ふつうの意味での父親と娘としては、泰淳氏と花さんはかなりぎくしゃくしていたように見えたが、感性の芯のところはしっかりと通じ合っていると、私はこのレコードの一件を境にして思うようになった。そして、「富士」の連載がスムーズに進行し完成した件については、花さんの存在もまた一役を買っていたのだという思いが、連載完結のあと心に湧いたのだった。  第三は、三島由紀夫氏の割腹自殺だろう。この事件と「富士」との関係を見るについての私のアングルには、いささかの説明が必要であるかもしれない。  昭和五十四年六月二十日増補版第一刷発行、となっている『武田泰淳全集』(筑摩書房刊)第十七巻の月報に、実は私の文章が載っている。これは武田泰淳氏の死の三年後に出た刊で、月報への文章を百合子さんから頼まれたのだった。私の肩書はまだ「中央公論社勤務」となっており、百合子さんがどうしてサラリーマンの私に文章を書かせるなどという発想を抱いたのか、いまだに腑に落ちぬことのひとつである。  この巻には「快楽《けらく》」が収録されているのだが、私は「富士」担当者としてしか書く立場がなかった。そして、このとき私にはこれだけは担当者として書き残しておくべきではないかと思っていたことがあり、それを書くのでよければと断わって引き受けた。この内容に「富士」と三島由紀夫氏割腹事件との関りを説明している部分があるので、「終章のあとのエピローグ」と題されたその文章のひとくだりをここに書きうつしてみたい。 [#ここから1字下げ] 「いやな匂いがする。下賎のやからの、いやな匂いがする」といって登場する一条実見という美貌の青年は、自分を宮様だと思っている元精神医学生の空想性嘘言症患者だが、この人物が三島由紀夫氏を髣髴とさせることはすでに何人かが指摘している。作中の一条実見は、精神病院から失踪し、警官の制服を着用してT御陵に潜入すると、本物の宮殿下の前に突然あらわれ「日本精神病院改革案」なるものを殿下に渡す。そして警備員たちの怒りを激発させて彼らに殺されるために「無礼者!」「馬鹿者!」「不忠者!」と罵倒するが果せず、かくし持っていた青酸カリをあおり、自分は宮様だと言い張ったまま死んでゆく。  この�一条事件�の部分は十五章「事件の発生、その直後」であるが、掲載は昭和四十六年の新年号であった。新年号は四十五年十二月七日発売、武田さんから私が原稿を受取ったのは十一月二十日、そして三島由紀夫氏が割腹自決したのが十一月二十五日である。武田さんはのちに「こう言っちゃ悪いけど、三島さんが死んでくれたおかげで『富士』が完結できた」などと言われたが、この言葉が「三島由紀夫氏の死がヒントになった」ことを意味するものでないことは、右の事情から明らかである。出校したゲラを読み合わせながら「三島事件」の報を聞き慄然としたことを、私ははっきりとおぼえている。単行本『富士』が発行されたのは昭和四十六年の十一月であり、俯瞰すればするほど「一条事件」は「三島事件」をヒントに書かれたと語られがちだ。さらに時が経ちさらに俯瞰して作品を見るならば、その時間の前後関係は「富士」という作品の価値観とは無縁となって消えてゆくだろうとも思う。しかし、作品の名誉のためにではなく、作者の名誉のための現場の証言として、機会があれば言ってみたかったことである。作中の「一条事件」と現実の「三島事件」が、時を同じくして噴出した、そのことから武田さんが深い感動と不思議な力を得て、「富士」を一気に書き抜いたというのが真実だろう。 [#ここで字下げ終わり]  つまり、そういうことなのだ。武田泰淳氏が一条実見の行動を書いた第十五章を脱稿したのが十一月二十日、二十五日にゲラ出校(三島由紀夫氏割腹自殺)、七日発売(その頃は新聞や週刊誌が三島事件で埋めつくされている)……私が担当者として「ヤバイ」と感じたのはこの時間の関係と、「富士」の読み方とを結びつけられる危険を感じたからだった。だが、たしかに本物の作品はそんな因果関係を突き抜けて読者の心に刺さるのであって、小賢しくそれを気にしすぎるのは、武田文学の力をなめていることになるのではないかと思わないこともなかった。だから、この事実は担当者として目明しの控帳に記すようにして秘かに覚えていようと心に決め、生前の武田泰淳氏の前で話題にすることさえ、自らに禁じていたのだった。  だが、百合子さんにはそのことを話した覚えがある。百合子さんが武田泰淳氏の死後、中央公論社に勤務中の私に全集のための原稿を依頼するなどという突飛な発想をしたのは、あるいは三島事件と「富士」についての私の言葉が、頭の片隅に引っかかっていたせいかもしれない。それはともかく、時代の風、花さんのセンス、三島由紀夫氏の割腹などが「富士」の執筆を推進させる力となっていた……これが担当者としての実感であり、それらすべてを映し出す存在として、百合子さんという巨大な鏡があったというのが、いまになって私がもっともあざやかに思い浮べる構図なのである。 「富士」連載終了のあと、武田泰淳氏はかなり体力を消耗した感じになった。それでも『海』には、開高健氏、佐々木基一氏と三人の座談会による「武田泰淳の世界」と、「めまいのする散歩」「上海の螢」という二つの連載小説を掲載することができた。この頃、武田泰淳氏はすでに自分で執筆することができなくなり、百合子さんが口述筆記をまかされていた。この作業によって、百合子さんの文章のセンスが磨かれたという見方が、武田泰淳氏の死後、百合子さんが『海』に発表した「富士日記」に対して何人かの評論家から提出されたが、このあたりについては埴谷雄高氏の意見に耳を傾けてみたい。 [#ここから1字下げ]  ここにおられる方々のかなり多くの方は、「海」の「武田泰淳追悼号」に出ている百合子さんの『富士日記』を読んでおられると思います。この『富士日記』は、追悼号ばかりでなく、つぎの正月号にも出ておりますが、これを読まれた方は必ずびっくりしたと思います。その文章はたいへん緻密な観察と、躍動するようなヴィヴィッドな表現力を持っております。  正確な言葉は忘れましたけれども、大岡信君が朝日新聞の「文芸時評」でこの作品を取り上げ、非常にほめています。ところで、そこでこの百合子さんのりっぱな仕事振りは、恐らく武田泰淳の口述筆記をしているうちに自然に会得したものだろうというふうに述べておりました。  これはしかし、大岡信君の間違いで、百合子さんは口述筆記中にそれを会得したんではなく、百合子さん自身、生来の芸術家なのであります。私は、武田君が百合子さんと一緒になる前から百合子さんを知っておりますけれども、あらゆる問題に対する百合子さんの直観力というものは、まったく意表外なところから出てきて、しかし驚くほど的確に対象の本質をつかんでいる、そういう稀有ともいえる珍らしい才能を百合子さんは初めから持っていたのであります。ですから、武田君はそういう百合子さんを発見し、驚き、感嘆して惚れ込んだのであります。  武田君自身或る作品の冒頭に、百合子さんについて彼女は面白い女であるというふうに書いていますが、本当に百合子さんはけたはずれにおもしろい、何時話しても、百合子さんの発想にはいつでも感嘆させられて、ああ、おもしろい、おもしろいと感嘆せざるを得ません。その百合子さんの天衣無縫な芸術性の最初の発見者が武田君だったのであります。(中略)  先ほど、武田泰淳君の口述と百合子さんの筆記のあいだにドラマがあると私は申しましたけれども、ほんとうを言えば武田君のドラマは、勿論筆記しているときばかりでなく、百合子さんと生活をしていたとき全体にあったのであります。私と知り始めたころの武田泰淳は、否定的なニヒリズムを片手に抱えて、幾つもの傑作をいろいろ書きました。それが、その否定的なニヒリズムがだんだん小さな部面になって、次第に大きな武田泰淳的世界、武田泰淳的宇宙のなかへ包含されるようになってしまいました。  それは、一種独特な全的肯定者であるところの百合子さんがそばに絶えずいたことから生じた変化だと私は思います。武田泰淳もまた成長する作家であってはじめからすでに質的に優れていた出発点からさらに二回りも三回りも大きくなったと思います。その大きな底辺の支えを百合子さんが果たしました。 [#ここで字下げ終わり]  これは、一九八四年に発行された『戦後の先行者たち』というタイトルの書物に収録されている、武田泰淳氏の死後に『目まいのする散歩』が野間賞を受賞した式における、埴谷雄高氏の挨拶の一部である。  ここで語られている内容には、百合子さんの葬儀のときの埴谷氏の言葉とかさなり合う部分が多く、百合子さんに対する氏の一貫した評価がよくあらわれているように思う。�全的肯定者��天衣無縫�という、葬儀の場で耳に強く残った言葉が、私の中でゆっくりと回転しはじめた……。  武田泰淳氏の死は、一九七六年十月五日だった。武田泰淳氏という文学者の輪郭についても、百合子さんと同じ朝日新聞の記事にゆだねることにしよう。新聞の見出しは「戦後派文学の武田さん死去」であった。 [#ここから1字下げ]  戦後日本文学の中軸的存在として、創作活動をはじめ、評論、文化評論などで幅広く発言し戦後作家のなかでもっとも�人間的�な作家であった武田泰淳氏が五日午前一時半、東京都港区の東京慈恵医大付属病院で胃がんのため死去した。六十四歳。自宅は東京都港区赤坂六ノ一〇ノ六ノ二〇四、赤坂コーポラス三三号、喪主百合子夫人。  葬儀は十日午後一時—二時、告別式は同二時から東京・青山葬儀場で行われる。  同氏は、最近体の不調を訴え先月末に同病院に入院したばかりだった。雑誌「海」(中央公論社)に一昨年から自伝風の読切り小説を連載中で、九月号では「歌」という主題で、中国に滞在中のころのことを書いている。同編集部では「前から体の調子がよくないといっていたが、胃が痛むなどということも聞いていなかったので驚いています」と話している。     ×   ×  明治四十五年、東京・本郷の浄土宗の寺に生れた。昭和六年、東大支那文学科に入学後、左翼思想に傾倒し左翼行動を行って、退学。同八年、竹内好氏らと「中国文学研究会」をつくった。以来、中国への関心は死ぬまでつづいた。  戦後は、一時期、北大文学部助教授をつとめたこともあるが、戦後派文学の拠点「近代文学」の同人となり作家活動に専念してきた。作品には評伝「司馬遷—史記の世界」をはじめ「蝮のすゑ」「異形の者」「風媒花」「森と湖のまつり」「秋風秋雨人を愁殺す」(芸術選奨となったが、辞退した)「富士」「快楽」(日本文学大賞)……などがあるが、最近作は今年発表された自伝的作品「目まいのする散歩」で、この続編にあたる「歌」(「海」九月号)が絶筆となった。  氏は野間宏、埴谷雄高、大岡昇平氏らと並んで戦後文学の中心的存在であり、武田文学は、それまでの日本文学とちがい、出来事の根拠と意味を追究する思想的姿勢を維持しつづけるところに独特の重量感のある文学であった。 [#ここで字下げ終わり]  武田泰淳氏の死の直前について、私はかつて『夢の始末書』という、中央公論社で編集者をしていた時間を追想する作品を書いた。それは記録によってではなく記憶によって書いた作品だが、十年以上も前のことだから現在よりも具体的な出来事があざやかに頭に残っていた時期における執筆だった。ある日、百合子さんから中央公論社の嶋中鵬二社長に電話があり、会社から二人だけ人手を貸してほしいという内容だった。武田泰淳氏を入院させるためであり、嶋中社長はさし向ける人手として塙嘉彦『海』編集長と編集部員の私を選んだのだった。自著で気が引けるが、『夢の始末書』の中のこのあたりを少し引用してみたい。 [#ここから1字下げ]  塙編集長と私が、赤坂の武田邸に到着したときは、すでに武田泰淳を乗せた担架が、何人かの男の手によって二階から降ろされ、百合子夫人が担架に寝ている武田泰淳に、何かを語りかけながら入口へ出て来るところだった。男の人たちは、私たちが遅参したために調達された、アパートの管理人と病院車の運転手だった。塙編集長と私は、あわてて担架の端に手を添え、かろうじてアパートの階段を降りて車へ乗せるまでの役に立つことができた。 「塙さんとムラマツさんですよ……」  百合子夫人の声が聞えたが、私は武田泰淳の顔を見ることができなかった。  外は、小糠《こぬか》雨が降りつづいていた。病院の車へ乗せるとき、アパートの軒からわずかに出なければならず、 「濡れるからタオルかけるからね……」  百合子夫人が、子供に語りかけるように言った。カッと目をみひらいたままの武田泰淳の顔の上へ、一瞬、タオルがかけられて、その表情が見えなくなった。 「濡れるからね……」  百合子夫人が、かさねて言った。それは、武田泰淳へ向けてというよりも、小糠雨を防ぐために顔にかけたタオルが、別なシーンとかさなるのを消そうとする、百合子夫人特有の意識のながれから出た言葉にちがいなかった。  病院へ到着すると、病院車から車のついた台へ担架が移された。百合子夫人は、受付で何やら話していたが、やっと話が通じたらしく、塙編集長と私を手招いた。担架を乗せた台に手をかけていた私たちは、はじかれたように顔をあげた。  二人で台を押し、病院の廊下を進んで行くとき、これはいったいどんな役割なんだろう……私はそう思った。百合子夫人の武田泰淳に対する子供をいたわるような語りかけは、しばらく武田邸をおとずれなかった私に、ある直感を与えていた。だが、躯に生じたその直感を、私はみつめないよう努力しながら車のついた台を押していた。  廊下を進んで行くうち、旧病棟と新病棟のつなぎ目だったのか、車が何かを跨《また》いだ感じになり、ガクッと揺れた。武田さんがニコッと笑った……一瞬、私はそう思った。だが、それは車のついた台の震動により、武田泰淳の入れ歯がずれ落ちて、急に歯があらわれたからだった。私は、武田泰淳の表情に合わせて笑おうとした自分の表情を、あわてて元にもどした。百合子夫人は、武田泰淳の入れ歯がずれたことに気づいているようだったが、そのまま先に立って病室へ向って歩いて行った。  病室のベッドに横たわったあと、武田泰淳が意外に元気なのを知っておどろいた。小糠雨を防ぐためにタオルを顔にかけられたシーン、車のついた台の震動によって急に笑ったような顔になったシーン……そのいずれのときも、武田泰淳の目はきびしく宙を見すえていた。その表情が、こっちへものりうつるようだったのだが、病室のベッドに横たわったとたん、目がやわらかくなったのだった。 「患者さんについてご質問したいのですが、どなたに……」  看護婦がやって来て、ノートかカルテに何かを記入しながら、百合子夫人にいろいろと質問をはじめた。塙編集長と私は、部屋のすみへ寄って、それを気にしていないかたちをよそおい、ときどき顔を見合せて打合せをしているような仕種をしていた。看護婦は、ごく一般的な、まことにのどかな質問を発し、百合子夫人は苦笑しながらそれに答えていたが、 「患者さんの性格は?」  という質問にはさすがにムッとしたらしく、 「ガンコです」  冷たい声で言い放った。これには、ベッドの上の武田泰淳も、息女の花ちゃんも、塙編集長も私も、そしてついに当の百合子夫人自身も吹き出してしまった。そんな病室で、看護婦はただひとり、何がおかしいのかという顔でメモをつづけていた。 「こちらはトイレになっていますが、おとなりと共有になっています。ここの赤ランプがついていたら使用中、ということで」 「はい」 「この庭には、ときどき鳩がやってきますが、あまり餌をやらないように」 「はい、鳩に餌はやらない……」  看護婦と百合子夫人がそんなやりとりをしているとき、塙編集長と私のうしろから、白衣を着た男が二人、足早に入って来た。そのけはいに何かを感じた塙編集長と私は、百合子夫人に目くばせをして廊下に出た。  廊下でタバコをくわえた私たちの脇を、二、三人の看護婦がすりぬけて、武田泰淳の病室へ入って行った。すると、すぐにドアの上に赤ランプがつき、「面会謝絶」の札がかかった。トイレの共有、鳩の餌、患者さんのご性格は……さっきの看護婦ののどかな調子《トーン》が、いっぺんに掻き消される思いがして、私はくわえたまま火をつけずにいたタバコを、指でつまんでポケットに入れた。 [#ここで字下げ終わり]  武田泰淳氏の死は、それから一週間足らずでおとずれた。私は、その急激な展開に呆気《あつけ》に取られた。『海』では「武田泰淳追悼号」を出すことを決定したが、通夜の日、私は塙編集長から、百合子さんが河口湖の山荘で書き貯めた日記があり、それを追悼号に掲載しようと言われた。私は、取り込み事の最中にそういうことを百合子さんにもちかけても無理だと思ったが、私の予想に反して百合子さんは塙編集長の申し出を快諾した。その瞬間、類稀れな文章家・武田百合子の歴史がスタートしたというわけである。  武田泰淳氏の担当をしていた私にとって、ここまでの百合子さんはあくまで武田泰淳夫人だった。武田泰淳夫人を見る目もまたさまざまだろうが、『海』の担当者であった私なりに見た武田泰淳夫人というアングルということになるのだろう。そして、こうやって百合子さんと自分の接点を書き綴ったあとには、百合子さんの二つの表情が強い残像として宙に浮いている。その二つとは、ドアの奥から目を凝らしている自閉症の少女のイメージと、最後に会ったパーティにおける、抱いている愛猫を誰かに奪われた少女のごとく弱々しい虚ろな目だ。 『富士日記』を発表し、その天賦の才能がにわかに世間の目に供されてから、さまざまな人が武田百合子について語り、文章を書いた。百合子さんの死後、さらに多くの武田百合子論に接することができた。だが、それらを聞き、あるいは読んだあとにも、二つの表情だけは解けぬ謎として私の頭に浮き沈みしている。 (百合子さんはいったい何色なのか……)  私は、その色を追ってみたいという強い衝動にかられた。そして、謎の表情を残したまま、いきなり姿をくらましてしまった百合子さんの時間を、じっくりと探ってみようという気持が、しだいに熱をおびてきたのである。 [#改ページ]   第二章 喫茶店「ランボオ」の色  私が百合子さんを知ったとき、彼女はとっくに武田泰淳夫人になっている人だった。したがって、武田泰淳氏の生存中は、それ以外の百合子さん像が私の中に浮ぶはずもなかった。しかし、百合子さんを知る人の話の中に、かならず登場する�ランボオ�という喫茶店の名前が、耳のかたすみに引っかかっていたのは事実だった。  だが、私の�ランボオ�についての知識は百合子さんの死を報じる新聞記事の程度、すなわち「戦後まもなく、文学者たちが集っていた東京・神田の喫茶店『ランボオ』で働いていて、当時作家として健筆をふるっていた武田泰淳氏と出会い結婚」というくらいのものだった。武田泰淳さんが百合子さんの前に、戸籍謄本をさし出して求婚したというエピソードを何人からか聞いたが、戸籍謄本をさし出して求婚するということの意味がおぼろげだった。そして私は、現実に百合子さんが生きて躍動しているときは、あまりそういう過去のエピソードに興味を抱くことがなかった。それくらい、現実の百合子さんには魅力と面白味があったのである。  ただ、百合子さんをモデル、あるいは素材とした武田泰淳氏の作品がいくつかあり、そこにあらわれる�ランボオ�らしき店、百合子さんらしい女性を頭に浮べると、武田泰淳氏との出会いも含めて�ランボオ�の時代を通り過すことはできないだろう。武田泰淳氏の死のあとに百合子さん自身が語った、亡夫の思い出の中にも、�ランボオ�の名は出てくる。雑誌『婦人公論』に掲載された、「特別寄稿 夫・武田泰淳の好きだった言葉」と題される記事だ。 [#ここから1字下げ]  武田と初めて会ったのは、そのころ私が勤めていた「ランボオ」という喫茶店でした。当時、ランボオという喫茶店に往き来している人のなかでは、武田は痩せて元気がないという風情の人で、今でいう中国の詰襟といった国民服を着ていました。そんな姿でモゾモゾ入ってきた武田を覚えています。特別ランボオの客の中で武田は目立つ存在でもなかったのですが、何か暗ァい感じがあって、恥かしそうにしており、うまく女に言いかけるのが下手な人、というイメージでした。  終戦直後には仙花紙のカストリ雑誌がいろいろ出ていて、椎名(麟三)さんとか、いろいろな人が文壇に登場してきていましたが、そんなものを読んでいる暇もなく忙しくしていた私には、武田が小説を書いている人だということも知りませんでした。漢文の先生みたいという印象でしたが、何か切実な感じというか、惹かれるものがありました。私はどうも駄目でヤボな人が好きになる性なのかもしれません。  初めは私も武田と結婚しようなんて思いませんでしたが、武田と一緒にいろいろなところへ行きました。あのころは、終戦後のどさくさで、結婚してどうのこうの、というようなことを考える時代ではなかったのです。いまだと芝生があって、子供ができたらブランコをつけてと、マイホームの夢は広がるのでしょうが、当時、私の友達もずいぶんいましたが、そういう結婚を考えている人は皆無だったんじゃないかと思います。  私は小説を書く武田というのではなく、いろいろ私にご馳走してくれる人ということで、つきあっていたみたいです。そのころ、いいだももさんが「武田さんて、えらい人なんだよ。僕は好きだなあ」と店に来て、帰りがけに、ふっと私にいって下さったことを覚えています。いいださんは大学生でした。  私が働いていた喫茶店では、カストリ焼酎をおごってもらうか、チョコレートパフェみたいなものをおごってもらうか、どっちかでした。夜はカストリ焼酎をおごってくれたものですが、武田は昼間くると、チョコレートパフェをおごってくれました。アイスクリームの上にチョコレートがかかっているだけのものでしたが、全部、進駐軍製品で、今のチョコレートパフェとは違って、ずっと高級です。上にかかっているチョコレートがハーシーのチョコレートかなにかで、全部ヤミ製品だから、そのころ大変なものでした。それをおごってくれて、私がペロッと食べて、武田はカストリ焼酎を飲んでいる。  武田はしばしばランボオへやってきて、私に何か食べたい? ときき、私はチョコレートパフェと答える。そうでなかったら、三省堂の出店にある葬式まんじゅうと言って、全部、当時いいものを、おごってもらいました。  特別に、おまえと結婚したいなんて言われたかしら、戸籍謄本を持ってきて見せてくれたりしましたが、私も当時、お酒をずーと飲んでいる女の人ということで、本当に先のことなんて考えていなかったから、結婚をありがたく思うという感じはありませんでした。  ただ好きなものを女の私に食べさせて、自分は黙ってはずかしそうにカストリ焼酎を飲んでいる武田が、何となく好きになって、それから、二十五、六年一緒に暮してきてしまいました。その間、飽きっぽい私が飽きることなく一緒にいたのは、やっぱり好きだったんだと思います。 [#ここで字下げ終わり] �文責編集部�となっているから、百合子さんにインタビューしたものをまとめて、特別寄稿というかたちにしたのだろう。これによっていくぶんは�ランボオ時代�の雰囲気と、武田泰淳氏に対する百合子さんの思いの一部は伝わってくるようだ。だが、百合子さんに対する武田泰淳氏の思いも、武田泰淳氏に対する百合子さんの思いも、ここに表わされた内容とは奥行がまるでちがうことはあきらかだ。カストリ、チョコレートパフェ、詰襟の国民服、戸籍謄本、酒を飲む女、もの喰う女……それらの断片をつなげようとしても私には無理だが、戦後のある時間を精いっぱいに生きていた百合子さんの姿が、ぼんやりと透し見えるような気がしたのはたしかだ。  百合子さんを素材としたといわれる武田泰淳氏の作品のひとつ「未来の淫女」の中にも、現実の百合子さんのありようを想像させる箇所がいくつもある。「未来の淫女」は、「馬屋光子は私にとって面白い存在だった」という書き出しになっている。埴谷雄高氏の言われた「武田君自身或る作品の冒頭に、百合子さんについて彼女は面白い女であるというふうに書いていますが」は、この作品を指している。この作品の中では百合子さんらしき女性は馬屋光子、�ランボオ�は�コスモス�という名で登場する。 [#ここから1字下げ]  喫茶店コスモスは神田の古本屋街、大出版社の四階建築の裏路に在った。伝七の第三代、光子の兄は失業状態に在り、光子の嫁入仕度金として父の残してくれた株券は、終戦後は一文の価値もない。毎晩おそく帰る妹を保護する力もない兄の家を出て、光子はこのコスモスの二階に寝泊りすることになった。それは一九四八年十二月のはじめのことであった。  コスモスには東京の有名なる芸術家、学者たちが顔を見せた。出版社の社長、社員。印刷業者、ブロオカア、文化的[#「文化的」に傍点]な野心に燃える青年学生や功なり名とげた大家たちもあらわれた。没落した富豪らしく、バルザック的な眼鼻の大きい容貌に「白銀の騎士」の如き白髪をのばしたこの店の主人は、客たちの間に坐りこみ、酔えない酒をあおっていた。青共の会議もひらかれ、新しい絵画運動も、ここで計画された。クリスマス近く、関西から上京した「女流声楽家」が主人をたよって上京し、これら選ばれたるお客たちにソプラノを聴かせることもあった。  馬屋光子、その喫茶店でただ一人の給仕女である光子はその風景の中で、万事を忘れて立ち働いていた。註文を聴く、酒やコオヒイや南京豆や柿の種をはこぶ。ストオヴの灰をかき出し、泥炭をくべる。ゴミを掃き出す。一寸客の傍に坐ってビィルを飲む。ジャンケンの賭をして勝って腕をねじあげられ、頭から酒をあびせかけられる。ビンをフロシキにくるんで酒や肉を買いに走る。計算どおり、客のすべてから勘定をうけとる。(数学は彼女の一番好きな学問であった)  この喫茶店で泊るとき、その彼女の蒲団なるものに私は寝た。声楽家も、その蒲団を利用する。そのように痒《かゆ》い、気持のわるい蒲団は、私は戦地でも留置場でも知らなかった。ひどく重たく、綿は只私たちを苦しめるためにだけ、ゴロゴロとまばらにかたまっているにすぎなかった。寒いため、その上から絨氈をかぶせるためか、朝起きると鼻孔も耳孔も埃でまっ黒になり、胸の中まで陰鬱になるのであった。それは光子の肉体的慾望と共に、そのたび毎に、私を衰弱させた。  個人がそれぞれ誇りを持っているという事実は、原来は人類を明るくいろどるものだ。だがその誇りは人知れぬ内奥で保たれているときだけ、暖い光を宿す。もし社会生活の外面を飾るため巧みに利用された場合、誇りは実に陋劣なものと化すにちがいない。光子の誇りは、少くとも私よりは、多少陋劣さが少い、と私は信じた。常々、パンパンと想われるのを悲しむ彼女の心は、誇りというのは大げさなほど、一種のおぼろげに鬱積した挽めしさで満ちていた。 [#ここで字下げ終わり] 「未来の淫女」は、�ランボオ�の雰囲気や当時の百合子さんの生活を想像するためばかりでなく、実は百合子さんをめぐる重大な問題をはらんでいる作品だ。だが、それはのちに追うことにして、ここでは武田泰淳氏と出会った頃の百合子さんが、どんな時間をすごしていたかを見ることに止めたい。  ここに登場した馬屋光子は、当時の百合子さんの輪郭と相似形を成しているのだろう。『婦人公論』において百合子さんが大雑把にふり返った思い出の時間が、この文章によってさらに具体的に想像できるのだ。  とにかく、ここに出てくる百合子さんは�貧乏�というイメージにつつまれている。食生活のままならなかった戦後の中でも、百合子さんはとくに飢えていたようだ。『婦人公論』の思い出にも、再三にわたって�おごってもらった�という言葉が出てくる。「ただ好きなものを女に食べさせて、自分は黙ってはずかしそうにカストリ焼酎を飲んでいる」という百合子さん側からの武田泰淳氏への思い出を、至近距離で見てゆくと戦後の飢餓と退廃の匂いが立ちのぼってくるのである。  だが、そんな中でも百合子さんはエネルギッシュに生きていたにちがいない。武田作品にあらわれる�百合子さん�も、不思議なエネルギーをもつ女として登場している。そういえば、百合子さんが酒を飲み、興に乗ったときの声は大きかった……私は、唐突にそのことを思い出した。  武田さんの死後、百合子さんはにわかに本来の自分をよみがえらせたという印象があった。本来の百合子さんが何であるかはもちろん計り知れなかったが、武田泰淳氏の存命中とは別人のごとき姿があらわれたような気がしたものだった。  私が担当者として武田邸へ通っていた頃の百合子さんを思い出すと、あまり自分を前へ押し出した姿が浮んでこない。あくまで武田泰淳夫人として、料理を作り、ビールを注ぎ、運転手の役をこなし、武田泰淳氏と客の話の流れに沿ってかるい反応を示す……少なくとも私の目からはそんなふうだった。だが、武田泰淳氏の死後、まずそのエネルギーが開放されたと思ったのは、興に乗ったときの声の大きさのせいだった。封印されていた何かが、一気にほとばしるような大きく、明るく、強い声で百合子さんは喋りまくっていた。かつての�ランボオ�時代の気分が、武田泰淳氏の死によって押し出されたのだろうと思いながら、私はそんな百合子さんをながめたものだった。  その声はたしかに大きく、明るく、強かった。武田泰淳氏の死後、『海』編集部全員が、月に一度のペースで百合子さんを囲み飲み会をやった。大評判となった『富士日記』の著者でもあるから、名目は立った。だが、そういう名目よりも、百合子さんがにわかにこれまでと別な色を身につけた魅力が、皆を惹きつけていたにちがいなかった。 「新しい未亡人は人気があるのよ」  百合子さんは、そう言っていた。未亡人とは未だ亡びない人なり……私は、百合子さんの言葉にそんな注釈をつけて、その飲み会を存分に楽しんでいた。しかし、百合子さんの大きく、明るく、強い声にはいささか閉口することもあった。街の店でこの飲み会をやると、その声が気になって何となく盛り上りが寸断されるように思い、ある時期から武田邸で行うことになった。そのきっかけが生じたのは、上野公園の中のヤキトリ屋でやった飲み会だった。  ヤキトリ屋といっても、そこは大広間のある店で、サラリーマン連中でごった返すほどの盛況だった。私たちはその大広間の奥にある離れ座敷に席を取り、例によって百合子さんを囲んだ飲み会が盛り上った。私は途中でトイレに立ったが、いったん大広間を抜けて入口近いところまで行かなければならなかった。離れにもトイレをつければいいのに……などと心のうちで呟やきながら、私は朦々たる煙の立ち込めるヤキトリ屋の大広間を歩き、遠いトイレで用を足していた。すると、何やら聞きおぼえのある声がはっきりと私の耳にとどいてきた。それは、離れで喋っている百合子さんの声だった。遠い離れからの百合子さんの声が、大広間の喧騒を突き抜けてとどいてくる……これは凄すぎると思い、次からこの飲み会は武田邸でということになったのである。 「あたし、そんなに大きな声かしら……」  それ以来、店で飲んでいる声が大きく、明るく、強くなろうとすると、私がそれとなく抑えるようになったので、百合子さんは不思議そうな顔で首をかしげていた。あるとき、百合子さんの親友であった女優の加藤治子さんと三人で飲んでいるとき、私は百合子さんの声を話題にした。百合子さんはやはり不思議そうに首をかしげたが、加藤治子さんに、 「あなたの声、やっぱり大きいわよ」  と言われ、首をすくめるように表情をしぼませたものだった。  だが、あの大きく、明るく、強い声はたしかに百合子さんのもつ、計り知れぬエネルギーから生じていたのだろう。思えば、最後に会ったときの百合子さんの虚ろな目には、あの声の主とは思えぬエネルギーのなさが感じられた。しかし、あのときの表情も、たしかに百合子さんの色のひとつにはちがいない。また、武田泰淳氏の死後、百合子さんはその寂しさをまぎらすため、過去の自分のパントマイムを演じていたのかもしれない。 「食べることが一番うれしいわ。おいしいものを食べるのがわたし一番好きよ」  これは、武田泰淳「もの喰う女」の中に出てくる房子のセリフだが、もちろん房子のモデルは百合子さんだ。この「もの喰う女」の主人公たる「私」は武田泰淳氏の分身だが、ここには百合子さんに出会った頃の感覚が投影されている。 [#ここから1字下げ]  よく考えてみると、私はこの二年ばかり、革命にも参加せず、国家や家族のために働きもせず、ただたんに少数の女たちと飲食を共にするために、金を儲け、夜をむかえ、朝を待っていたような気がします。つきつめれば、そのほかにこれといった立派な仕事を何一つせずに歳月は移り行きました。私は慈善家でも、趣味家でもありませんが、女たちとつきあうには、自然、コーヒーも飲み、料理も食べねばならず、そのために多少の時間と神経を費ったものですが、社会民衆の福利増進に何ら益なき存在であると自覚した今となっては、そのような愚かな、時間と神経の消費の歴史が、結局は心もとない私という個体の輪郭を、自分で探りあてる唯一のてがかりなのかもしれません。 [#ここで字下げ終わり]  冒頭の書き出しだが、ここにすでに当時の武田泰淳氏の心境が吐露されている。そんな「私」と「房子」は、はじめてのあいびきの際、代々木駅で待ち合せて池のそばの芝生に寝ころんだが、そのとき房子の口から出たのが「食べることが一番うれしいわ。おいしいものを食べるのがわたし一番好きよ」という言葉なのだ。この言い方には百合子さんの特徴がはっきりと出ている。百合子さんは、このように同じ意味の言葉をかさねて言う癖があり、それが百合子節となっていた。酒を飲んで声が大きくなるときは、かならずこのように同じ意味の言葉をつみかさねていた。いちばん伝えたいことを口に出してみて、そこに足りないニュアンスをおぎなう言葉を足し、まだ足りなければさらに……そうやって紡ぎ出す言葉の中で、百合子さんの声は大きく、明るく、そして強くなるのだった。 「私」と「房子」は、新宿の雑踏にもまれながら歩いて行くのだが、「房子」はまず豆ヘイ糖とハッカ菓子を露店で買う。映画を見て、アイスクリームを食べる。渦巻パンを買い、その袋をかかえてとんかつ屋に入る。そこでトマトソースのかかった厚めのカツレツと持参のパンで日本酒を二本飲んでから映画を見る。そして、電車のホームでアイスキャンディを買い、接吻をして別れる。「彼女の家まで送って行く途中、暗い細長い路で、酔の発した私は猛烈に彼女を抱きすくめては接吻しましたが、彼女は笑顔でなすがままになっていました。そのあまりの従順さ、弓子にない従順さが、酔がさめてからも一種の驚きとしてのこりました。」  それから一か月後、「房子」と偶然に会った「私」は、ちょっと高級そうなとんかつ屋でとんかつを食べたあと、「房子」の知っている店に案内される。裏通りの淋しい路にある、ガラス戸ばかりの多い、狭い氷屋だった。その店の壁に貼ってある写真は、すべて物を食べているところを撮ったものだった。 [#ここから1字下げ] 見ると壁の写真はみな外国の映画俳優が食事している光景でした。美しい洋服の男女が楽しげに顔向きあわせて朝の食卓につき、ミルクやパンや名前のわからぬ数々の料理を前にしているのもあり、女優一人が鶏の片足をあぐりと大口あけて食べている情景もありました。中には水着の体格よき青年男女が談笑しながら、ボート上で何かビンの飲物を手にしているのもあります。それらいかにも人生の幸福を象徴するごとき多種多様の白人飲食の写真は、どれも日光で変色して、そこの壁にへばりついていました。こんなことを考えついたここの主人のつつましい工夫、それを面白そうに無心に説明する彼女、それは豪華活溌な外国の食事の精神にくらべ、いかにも片隅のジメジメした淋しさを感じさせました。 [#ここで字下げ終わり]  このシーンは、私の好きなセンスにみちている。日本の戦後の状況や気分と、壁に貼った写真との対比が見事だ。�食べる�という世界における、「房子」との時間と写真の中の外国の映画俳優のゆたかさとのコントラストが、戦後のガード下の音や匂いをBGMによみがえってくる。だが、そういう武田泰淳氏の文学者としての才能よりも、いまは登場人物のなりゆきに目を凝らさねばなるまい。  そのあと「房子」のつとめる喫茶店でカストリを飲み、二つ三つ用をすませた「私」は、九時頃になってまたその喫茶店に寄る。そして「房子」と連れ立って外に出ると、昼間と同じとんかつ屋に入る。そして、「私」は終電で「房子」を送って行くのである。 [#ここから1字下げ]  送って行く闇の路で、私はこの前よりなお一層乱暴に彼女を愛撫しました。「怒る?」ときくと「女って、こんなことされて怒るかしら」と、彼女は私の自由にさせていました。細いゆるやかな坂道が、下ってまた上っている、その暗い長い直線の路に、かなりの距離をおいて、外灯が三つ四つぼんやりともっています。彼女の家へ曲る横丁の所で私は急に「オッパイに接吻したい!」と言いました。それがこんな場所で可能であるとか、彼女が許すとか、それら一切不明の天地混溟の有様で、その言葉が、嘔吐でもするように口を突いて出てしまったのです。すると彼女は一瞬のためらいもなく、わきの下の支那風のとめボタンを二つはずしました。白い下着が目をかすめたかと思う間に、乳房が一つ眼前にありました。うす黄色く、もりあがって、真中が紫色らしい。私は自分がどのようなかっこう、どのような感情を保っているのかも意識せずに、そのふくらんだ物体を口にあて、少し噛むようにモガモガと吸いました。そしてすぐ止めました。何か他の全くちがった行為をしたような気持、あっけない、おき去りにされた気持でした。彼女はやさしく笑って、「あなたを好きよ」と、ふり向いて言うと、姿を消しました。私は大股に駅に向って歩きました。もちろん電車はないので、駅を通りすぎ、友人の家の方角に向って、のめるようにして歩きつづけました。胸苦しく、はずかしさと怒りに似たものが重く底にたまり、その感覚はますます強まりました。不明瞭な、何かきわめて重要な事実が啓示される直前のような不安が、泥酔の闇の中に火花のごとくきらめきました。 「あれは何だろうか、彼女の示したあのすなおさは何だろうか。あれは愛か」と私は揺れる身体をわざと揺すらしながら考えました。「もしかしたら、あれは、御礼なのではないか。とんかつ二枚の御礼なのではないか。彼女はまるで食慾をみたす時そっくりの、嬉しそうな、また平気な表情をうかべていたではないか。食べること、食べたことの興奮が、乳房を出させるのか。ああ、それにしても自分は彼女の好意に対して、何とつまらぬ事しか考えつかぬことだろう。まるで俺は彼女の乳房を食べたような気がする。彼女の好意、彼女の心を、まるで平気で食べてしまったような気がする……」  友人の家にころがり込んでからも重苦しさはつづきました。「食慾、食べる、食慾」と私はうつぶせになってうなり、それからすすり泣く真似をしました。泣くのが下手な以上、その真似をするのが残された唯一の手段のように考えたからでしょうか。 [#ここで字下げ終わり] 「もの喰う女」は、ここで作品を閉じている。事実との距離を正確に計ることはもちろんできないが、ここには武田泰淳氏と百合子さんとのあいだにしか成立し得ない感性がたしかに描かれている。  この作品が書かれたのは一九四八年(昭和二十三年)、百合子さんとの結婚はその三年後、武田泰淳氏三十九歳、百合子さん二十六歳のときだった。つまり、この作品の中での「私」と「房子」は、三十六歳と二十三歳ということになる。  一九四八年には、すでに武田泰淳氏は『近代文学』の同人となっており、荒正人、平野謙、本多秋五、佐々木基一、埴谷雄高氏らとの交友が深まっていた。『批評』同人にも参加して、福田恆存、大岡昇平氏とも知り合っていた。三十六歳の武田泰淳氏は、そういう時間の中で「もの喰う女」を書いたのである。三十六歳の武田泰淳氏はそんなふうだとして、二十三歳の百合子さんはどんなだったのか。私にはやはり、武田泰淳氏の書いた作品に取材するしか手段がない。  しかし……と、私は考えた。私は吉祥寺に住んでいるが、すぐ近くに武田泰淳氏と深い関係にあった埴谷雄高氏が住んでおられる。それに、いまや木村伊兵衛賞に輝く写真家となった花さんに話を聞かせてもらうこともできるかもしれぬ。百合子さんがかわいがった弟である鈴木修氏、あるいは後年の親友であった加藤治子さん、それに幼ない頃を知っておられる同級生にも連絡が取れれば……私の中にまだ消えやらずにいる編集者的取材感覚が、ここで急にムクムクと頭をもたげてきた。 (とりあえず埴谷雄高さんだな……)  そんなことを呟やいたものの、やはり畏敬する大先輩ともなると、近くだからといって気軽に出かけて行くわけにもいかない。だが、�ランボオ�時代の百合子さんと武田泰淳氏については、どうしても埴谷氏にうかがう必要があるという気持がしだいに強まり、ついに決心をして埴谷邸を訪問したのだった。  埴谷邸の「般若」という木の表札を見るのは、初めてではなかった。『海』編集部時代に、同僚の安原顯に頼まれて、埴谷氏のゲラを届けにうかがったことが二、三度あったのだ。だが、今回は私自身の目的をもった訪問なので、少しばかり緊張せざるを得なかった。百合子さんの葬儀のとき、ステッキで躯を支えておられたので、足の状態も気になっていた。  玄関を入ると、応接間の埴谷氏は奇妙な姿勢で、躯に力を入れておられるのが見えた。埴谷氏は、ご馳走してくださるワインの抜栓の最中だったことが、応接間へ入ってみると分った。そこから先は、埴谷氏独特の語りのシャワーを浴びる時間となり、二時間以上も話をうかがうことができた。埴谷氏は、洋風の三遊亭円生といった面立をしておられ、しかも語り口も噺家に近いイメージがあるので、あの『死霊』の作者というよりも、あたかも名人上手の舞台でも味わったような感覚が残った。 [#ここから1字下げ]  戦後、文学者たちの集まりというものが新宿あたりの飲み屋でもできたわけですが、その一番はじまりがランボオなんですよ。ランボオのおやじは、前から高見順の本を出したりいろんな絵かきの本を出していた昭森社の社長で、バルザックという仇名で一種の出版界の名物男だったんです。その男が戦後、自分のところに喫茶店をつくって、もぐりの焼酎を飲ませた。昼間でも飲もうと思えば飲める場所にしたんですね。  だから、いわゆる戦後派の仲間がいっぱい集って、店は流行ったんです。石川淳なんか、千葉から出て来て「近代文学」へ寄って、そのあとかならずランボオに寄った。そこで編集者に会って、注文を受けたり原稿を渡したりしていたんです。  そういう時代で、百合子ちゃんは貧乏ですから、髪を洗い髪のようにずーっと長くしていた。横浜で焼け出されて、貧乏そのものでランボオへ来た。ところが美女ですからね、百合子さんに惚れて通う者が多かったんです。いろんな連中が通って来ましたが、百合子さんもだんだん目が馴れてきた……そんなところへ武田があらわれたんです。  武田は永井荷風とおんなじで、自分の戸籍謄本を出してね……いやあ、どうしようもないね。ところがやはり、百合ちゃんにとっては武田がいちばん安心感があったわけですね。はじめは武田も一緒になるとは言ったものの、本当の女房にするか迷っていた。だから、恋人時代がずいぶん長かったんです。  しかも、武田はだんだん百合ちゃんに酒を飲ますのをきらうようになってね。つまり武田は、女房が酔っぱらうのがいやなんだ。ま、それもあるし武田自身が寺で育ったことの影響もあった。武田も純真だと思うのは、お父さんとお母さんが自分をつくったとはどうしても思えないというんです。坊さんは妻帯しちゃいけないという考えも、小さいときから身についていた。子供も産んじゃいけないというので、百合子さんもずいぶんかわいそうな目にあった。  戦前は堕胎罪というのがあったが、戦後にはそれはなかったけれど、百合子さんは四へんやった。そして、四へん目は失神しちゃった。失神したあと、これ以上堕胎をすれば命が危ないと言われた。  戦前の僕たちというのは、大きな意味でニヒリズムなんです。国家への反逆、人類自体への反逆、自己への反逆、人間への反逆とかね。武田も僕もニヒリズムでね。その武田のニヒリズムを緩和させて、人間を見るようにさせたのが百合子さんなんですよ。  百合子さんは本来、全肯定なんだから。あらゆるものすべてよし、と。百合子さんという人は生れつきの大天才でね、本当いえばお筆先か何かになって百合子教というのをつくればいちばんよかった。天理教や大本教よりも、もっと立派な全肯定の宗教ができたと思いますね。まあ、武田の女房になっちゃったから駄目でしたけど。  坊さんというものはいくぶん堅実で、節約というものもあるんですね。だから、百合子さんを女房にするまでは、一種の妾ですよ。手当をわずかしかやらない妾、もうほんと少ししかやらない。だから百合子さんはつとめなきゃ食えない、ずーっとつとめっぱなしです。武田は、ほんの百合子さんが食えるくらいしか金をやっていない。  それがとうとう百合子さんと結婚するようになったのは、やはり百合子さんの誠実性です。とにかく、死ぬ苦しみで四度目まで子供を堕した。その誠実性が、武田に結婚を決心させたんだろうね。  武田と一緒になって百合子さんも成長したし、百合子さんの天性の芸術性が武田にうつって、武田のニヒリズムがだんだんなくなっちゃった。武田も肯定派になっちゃったですよ。否定を内包した肯定派だから、武田も大きくなった。僕は二人の結婚の保証人だけれども、いい結婚の保証人になったと思ってますよ。  戸籍謄本? これはね、やっぱり永井荷風の影響があると思いますね。日本人は外国人とちがって身分証明書を持って歩かない。荷風はヨーロッパ的な考えがあって、向うで身分証明書を持っているのと同じように、戸籍謄本を持って歩いていた。その影響が武田にあったと思いますね。 [#ここで字下げ終わり]  埴谷氏の話によって、当時の�ランボオ�の雰囲気の中で、武田泰淳氏と百合子さんが結びついたいきさつが、ひとつの色としてあざやかに伝わってくる。埴谷氏が、百合子さんの深い理解者で、しかも庇護者的な立場にあるという関係もよく理解できた。また、当時、百合子さんがかかえていた貧しさが、やはりいまからは想像しがたいものであったことも、あらためて強く感じさせられた。  百合子さんに対しても武田泰淳氏に対しても、�誠実性�という言葉が出てきた。「もの喰う女」の中に、「私は揺れる身体をわざと揺すらしながら考えました」、あるいは「泣くのが下手な以上、その真似をするのが残された唯一の手段のように考えたからでしょうか」というくだりには、自分に向って擬態をつくり、その擬態をじっとかみしめるセンスが感じられる。つまり、誠実性を自分に向けることを極端に恥ずかしがる感覚だ。その人が相手すなわち百合子さんに見せた誠実性は、持っていた戸籍謄本をさし出すという滑稽に近い必死な無骨さだった。それを百合子さんは、全面的に受け入れた。  その百合子さんもまた、素直な誠実性を表現することの苦手なタイプだったにちがいない。四度まで苦しい堕胎を体験し、四度目には失神してしまう……その全肯定性が武田泰淳氏に誠実性として伝わった。この二人にしか通用しない成立の条件が、時代の空気や貧しさやニヒリズムをも含めて、結果的には十分すぎるほどそなわっていた。その頂上で、二人は結ばれたのではないか……私はそう思った。  すると、たとえば「未来の淫女」に出てくる光子(百合子さん)のありようが、また別の色をおびてくるような気がした。  この作品の中に、度を超えて酔っぱらった光子が、駅の便所の窓のところへいつも持っている買物篭を置こうとして、窓の外へ落してしまう場面がある。光子は、電燈の光もほとんど射さない便所の裏の、消毒薬の匂いが鼻を刺激する中を、水をかきわけていつまでも買物篭を探し、最後にやっとそれを見つけだす。光子が必死で探していたのは、買物篭の中にある中原中也の詩集、そしてその詩集に載っていない中也の作品を写し取ったノート、それにカソリックの「公教要理」だった。「この彼女が詩集を読み、天主教会の『要理』をこころ得ていることは奇妙である。しかし奇妙でないことがこの人間世界に有りうるのだろうか」と、武田泰淳氏は書いている。  百合子さんはたぶん作中の光子と同様に、中原中也の詩集と、そこに収められていない他の詩を写したノート、そしてカソリックの「公教要理」を持っていたのだろう。これに武田泰淳氏は�奇妙�という言葉をからめている。�奇妙�にはちがいないが、しかしこの人間世界において�奇妙�でないことがあり得るだろうか、と。この件について、ここでは武田泰淳氏の呟やきを聴くに止めておこうと思う。しかし、このあたりは百合子さんの色を探ってゆくときの、大きな鍵となってきそうだ。 [#ここから1字下げ]  光子はいつのまにか、二枚の外套を着たまま、グンニャリと畳に伏していた。その瞳は、自分が今どこにいるか忘れはてたような、気味のわるい坐り方をしていた。彼女の外套は二枚ともポケットを鼠にかじられていた。いじきたなく喰べのこした乾燥薯やマンジュウを入れたままで、いつも朝になると食い破られていた。つくろわなくては質屋も取ってくれない。それと古い古いトランク。あとは身につけている下着とブラウスとスカアトだけであった。下着を洗えば、素肌の上に服を着ていた。酔って帰ったあくる日、泥のスカアトと下着を同時にあらえば、海水着だけを身につけていた。(彼女は女学生時代に、水泳の選手だった)客が何か一枚買ってくれる頃は、たいがいは何か一枚売らなければ、外食券一食分、おかずを取らないでも食べられなくなっていた。  彼女が口をなかば開いて、弱々しく笑っている時、あるいは無言で天の一方に眺め入っている時、それはおそろしい肉体的苦痛におそわれている証拠だった。だが誰だって、(私でさえ)そんな彼女の表情から、それほどの苦痛を想像することはできなかった。私が老人と愛について談じあっているあいだ、彼女は疲れ切った犬のように、開いたままの口を畳にふれんばかりにして、ためいき一つせずに、ジッとしていたのだった。彼女の濃い眉毛は少しもしかめられていない。むしろ肉づきのよい額とともに、左右におし伸ばされていた。頬にも疲れの影はない。だが嘔きけと空腹で、目まいするほどになっている。  女中が案内してくれた部屋は普段は使わぬのか、埃が積んで、外に面したガラス戸は釘づけになっていた。陽も射さぬらしく、かびの匂いがした。暗い電燈でも壁のよごれは目立ち、気のせいか床も傾いていた。私は女中を呼んで、洋間があったら、部屋をかえてくれるように頼んだ。まだ一箇月では早すぎるのだが、ともかく手術を終らねば彼女が店にもどれない。店にもどらなければ、寝る場所はなし、第一食べて行けないのだ。私としては一刻も早く、彼女がもとの身体になることがのぞましかった。ほとんどめんどうを見てやらなかっただけに、それまでは出来るだけのことはしてやりたかった。  昨夜私の胸に頬を押しあてたまま、「あなたの子供だったことをおぼえておいてね」と彼女はつぶやき、「ウン」と答えたが、私が、そのことを彼女のいう意味で後々までおぼえているとは、到底考えられなかった。私はおそらく、彼女の胎内に宿る私の「責任」を解消してしまうことばかり念頭においていたようだ。宿泊料と手術料、それを明日じゅうにどこで手に入れるか、それがまず問題であった。  ベッドは一人用の幅の狭いものであった。掛蒲団は羽根蒲団であるが、昨夜の一組が去ったあと、掃除もしてないのか、細かい羽毛が床一面に散っていた。彼女の身体に着せかけると、フワリフワリと浮いた羽毛が彼女の髪や私の外套に附着した。 [#ここで字下げ終わり]  これを書きうつしていて、私は涙が滲むのをおぼえた。その理由の第一は、二十三歳の百合子さんが体験した、埴谷雄高氏の話された内容と一致する、悲痛な時間のすさまじさだった。次は、残酷とも思える具体性のある描写で、百合子さんがモデルであることが判然とした作品を書き綴る、武田泰淳氏の鬼気迫るほどに冷徹な精神の刺激によってだった。  武田泰淳氏は、これでもかこれでもかと自分が犯人であることを書きつづけ、書きつづけるほどに百合子さんの時間が残酷によみがえる。それはあたかも、精神病患者と精神科医が狂気の中での合意を成り立たせ、一ミリずつ正気の世界へ浮上しようとする決死の覚悟のようだ。どちらが患者でどちらが医師かが、この段階で逆転するというのはよく聞く話だが、この二人はその立場が最初からあいまいなのだ。  武田泰淳氏は、百合子さんのすべてを書くことによって、戸籍謄本をさし出す儀式の前に、すでに百合子さんと共に生きる決意を固めているはずだ。そして百合子さんは、おそらくは自分の血縁者がすべて拒絶するであろう内容の作品を書いた武田泰淳氏を肯定した。この段階で、両者は一体となって何かを切り抜け、二人以外に立ち入ることのできぬ精神的絆をつくり上げてしまったのではなかろうか。  そして、先述したようにこの「未来の淫女」には、百合子さんの色を探る上で避けて通ることのできぬ、さらに重大な事実が書き込まれている。それは、たとえ百合子さんであれ、そのことをも肯定したことに首をかしげたくなるほどに、痛切すぎる事実なのである。 [#改ページ]   第三章 色のなかの色 [#ここから1字下げ] 「未来の淫女」(昭和二十四年「文春別冊」十三号)は「血と米の物語」(同年「風雪」十月号)と共に、長篇の一部である。社会小説なるものを、野間宏君とは異ったやり方ででっち[#「でっち」に傍点]あげるのが、私の念願の一つである。彼のごとき膂力や信念に恵まれぬ私は、文字通り乱暴にでっちあげるより方法がない。馬伝事件、馬屋一家、同光子は、もちろん一般的象徴であって、特定のモデルにしたがったものでない。ただし光子的存在、光子的運命を身ぢかに感得したことが、私に創作への(勇気というには軽薄かも知れぬが)衝動をあたえた。「彼女」は、連鎖反応を無限に起す原子核的人物となった。「女の世界」の花子、「第一のボタン」のカミノハナ等、「彼女」は気ままに核分裂して、私の人間物理学にかすかながら、一つの筋目をつけた。庶民的な、動物的な、無意志の意志を代表するような、やや嘲笑的な姿勢で手脚をひろげる光子を、リラダン先生御指導、エジソン博士御製作の電気人形イヴのごとき洗錬された一箇のヒロインに仕立上げることは、私にはできない。彼女たち[#「彼女たち」に傍点]によって、自分の「学説」を撥き乱され寸断されるのが、私の「研究」、つまり小説構想の第一歩となることを望むのみである。  右顧左眄と批判されるほど、一貫しない作風であった。「観念派」「要領がいい」「正体がわからぬ」、非難はさまざまである。欠点だらけはよく承知しているが、ことさら新を追い奇を衒ったおぼえは全くない。その時々に、書けることを書ける形で書き綴って来たに過ぎぬ。親切な批評家を多数友人に持ったおかげで、どうやら発表作業を継続できたが、読者にはずいぶん迷惑をかけた。文体の破壊と復活、うまれかわりの逆行と早駈け、これからの難業苦業は想うだに身の毛もよだつが、まだ廃業の意志はない。「毒を喰わば皿まで」という通用語は、別だん否定的な意味ばかり示すのではないと思う。執念ぶかく自選集まで出した照れ臭ささをまぎらすために、古語を借りれば、 [#ここから2字下げ]  士は己を知る者のために死し  女は己を悦《よろこ》ぶ者のために容《かお》をつくる [#ここで字下げ終わり]   一九五一年三月十八日 [#地付き]武田泰淳  これは、「未来の淫女」と「続未来の淫女」(「血と米の物語」を単行本に収録のとき改題)が収められた本(昭和二十六年、目黒書店刊)のあとに添えられた「自作ノオト」からの引用だ。 「馬伝事件」「馬屋一家」「同光子」……これについて武田泰淳氏は、「もちろん一般的象徴であって、特定のモデルにしたがったものでない」とも「ただし光子的存在、光子的運命を感得したことが、私に創作の衝動をあたえた」とも書いている。馬伝事件とは鈴弁事件、その孫娘として登場する馬屋光子は鈴木百合子すなわち武田百合子なのだ。「未来の淫女」の中に書き込まれている、百合子さんの色を探る上で、避けて通ることのできぬ事実とはこのことなのである。  まず、「鈴弁事件」とはいったい何かを紹介しなければなるまい。  大正八年六月十八日の「東京朝日新聞」には、五月三十一日に起った事件として、四面、五面のすべてをついやして報道されている。当時、かなりショッキングな事件であり、しかも広がりのある問題をふくんでいたということだろう。事件の骨格は外米商鈴木弁蔵が、農商務省外米部の技師山田憲と、その友人の農学士渡辺惣蔵によって惨殺されたということだった。  くわしいことは省くとして、米騒動のさなかに起った事件であるために、一種の正義の犯罪めいた見方をされたらしい。鶴見俊輔他編による『日本の百年』の第五巻『成金天下』(一九六二年、筑摩書房刊)にも、「鈴木弁蔵は米屋の小僧からたたきあげた一代の成金であった。また、当時は米穀商の買い占めによる米価の値上りによって民衆の暴動が起るような社会情勢であったから、富裕な米穀商人は民衆の呪詛《じゆそ》のまとであった。そうした状況のなかで、加害者たちは自分の行為に罪の意識をもたなかった」という記述がある。山田憲は死刑、渡辺惣蔵は懲役十五年の刑を受けた。  この事件には、加害者の意識をもふくめて汲み取るべきことが多い。百合子さんが鈴木弁蔵の孫だと知ったとき、武田泰淳氏の中に作家としてのはげしい衝動が湧いたのは当然のことだろう。「未来の淫女」によれば、横浜の中華街において、中華民国の祭日の午後、「光子」の口から「私」にそのことは伝えられている。 [#ここから1字下げ] 「私のおじいさんはズル伝って言われたの。とてもズルかったの」と言った。「そのおかげで、バットで殴りころされたんだもの」 「じゃあ君、そりゃ馬屋伝七だろう。知ってるよ。馬伝だろう」 「そうなの」 「おどろいた、フウン。ありゃ君、有名だもの。とても有名な、君、ありゃ、誰だって知ってることだもの」 「イヤなの。だからイヤなの。女学校のとき、馬屋光子って言うと、横浜じゃすぐわかるんだもの。わたしは忘れてるし、平気だけど、お友達がわたしの顔あらためて見るんだもの……」 「………」 [#ここで字下げ終わり] 「未来の淫女」には、「まるでこの社会のどぎつさ荒々しさの中で、ひとりだけノホホンとしているような彼女が、全く自信のなさ、いわば自己喪失をむき出すのである」という文章がある。�自己喪失�というのはもちろん作中人物の「光子」に向けられている言葉だが、百合子さんの�全肯定�の精神の底に、この言葉が沈んでいないだろうかという気がしないでもない。 「光子」がこの事実を告白した場面は、おそらく百合子さんが武田泰淳氏に打ち明けた現実のシーンがなぞられた結果だろう。これは、ある意味で武田泰淳氏を遠ざける結果にもなりかねぬ告白だ。戦後のどん底の中で四度の堕胎を体験し、最後には失神までしてしまった「光子」、いや百合子さんにとって、この告白を武田泰淳氏が受け入れるか否かを、ついに試さざるを得ないところまで追い込まれていたということなのだろうか。それとも、ついにこの事実を告白できる関係が、二人の中に生れたという確信が、百合子さんの口を割らせたのだろうか。告白を受けたときの受け取り方は、「未来の淫女」の中では次のようになっている。 [#ここから1字下げ] 「光子の奴は馬屋伝七の孫娘だったんだ。この何でもない可愛らしい女が」私は、親の因果が子に報い、といったような感想とはかけはなれていた。さまざまな男たちと知らず知らず肉体関係を結んでいる、誰一人守ってくれるものもない貧乏きわまる彼女の運命をセンチメンタルに想いやったわけでもない。ただ彼女がその事実を打ち明けた瞬間、私にとって、自分たちの恋愛が妙になまなましい、重量あるものに想われたのだ。この横浜、かつて伝七の商事会社の堂々たる本店、それに伝七の金満家らしい邸宅のあったこの横浜は、その瞬間から以後、私にとってある生き生きとした土地となったのだ。 [#ここで字下げ終わり]  作家としての創作への衝動の前に、武田泰淳氏は告白の瞬間、百合子さんのすべてを受け入れようと決心したのではないだろうか。自分の前にすべてをさらけ出した百合子さんを受け入れることのできるのは、自分しかいないと直感したのではなかろうか。そして百合子さんは、独特の感受性でその武田泰淳氏の直感を予感した……それが告白の決心に勇気を与えたにちがいない。 [#ここから1字下げ]  横浜の中華記念日に焼きそばを食べてから数日後、私は札幌へ向けて出発した。だが、ろくな講義もできずに尸位素餐《のらりくらり》、一ケ月ほどして私は又東京に舞いもどっていた。私の関心はすでに捉えがたいある女の心から、確実な光子の肉体の方へグイと傾いていた。ひどい貧乏にも負けず、社会的不安にも衰えず、ひたすら快楽を求めて成熟をつづける馬屋光子の肉体は、たしかに私にとって安心できる場所であった。伝七の血の流れをうけた、健康素朴な光子の身体、その身体ゆえに生れている燥鬱症《あほう》的精神状態には、世界情勢を追いかけ廻して息せき切らせ、神経をそそげだてている島国インテリの一人である私を、明確に批判するものが含まれていた。 [#ここで字下げ終わり] 「未来の淫女」は、現実の中での武田泰淳氏と百合子さんの時間をベースにした風景の中に、矢原という老人が登場することによって、読む者がぐいとフィクションの世界へ誘われる進み方になっている。つまり、馬屋伝七が殺された過去の事件が、作品の表面へと滲み出てくるのである。 [#ここから1字下げ] (光子)がたんなる私の女ではなくて、馬屋光子[#「馬屋光子」に傍点]であること。その事実がその頃の私にとって、次第に重要な意味をおびつつあった。女を抱くことは、只その一人の女を抱くことではない。それはある血統、ある血族の一員である女を抱くことだ。そのような重々しい、無限にひろがる物を抱きしめているような想いが、馬屋光子を抱くたびに、私の胸にみちた。 馬屋伝七の一家、つまりは馬屋光子の血肉の由来は、私の関心の的となった。彼女の性格、彼女の生き方、彼女の寝顔や、肉づきにさえ、私はあの有名な馬屋家の運命を認めた。私は彼女からその祖父を想像し、祖父から彼女を判断し、何かしら私の人間に対する観察の幅をひろめ、底深い淵にのぞむ想いにとらわれることさえあった。  私は光子が馬屋光子であることを知って以来、馬伝事件については、できるだけの資料を集めるべく努力していた。図書館にも、新聞社にも足を運んだ。そこには一応、事件の概略を探る手がかりはあったが、その真相、そこにふくまれた人間的真実をつかめるだけの文献は見出せなかった。私ははじめ、たんに光子の性格に対する興味から、この事件のあらましだけを知りたかった。何ぶんにも、それはすでに過ぎ去った一事件であり、現代の私たちとは全く関係のない、忘れ去られた殺人事件であった。それは特殊な、異常な、それ故興味深くはあるが、あまりにも非日常的な偶然事であるかのように見えた。しかし私は、それら大正年代の世人の耳目をおどろかした数名の青壮年の行為が、決してそれだけ孤立した、一回ぎりの小波紋ではなく、むしろ社会的な太い地脈につながり、たえず地表にあらわれては消える人間一般の本質にかかわるものであることを悟った。その犯行については主犯山川清一の動機が明瞭にしるされていたし、共犯矢原礼次郎の動機も附記されていた。しかし私には次第に、矢原が何故山川に力をあわせたか、又何故犯罪遂行ののち、自分が犯人だと自首して出て、しかも主犯山川の名を秘していたのか、それが不明不可解になった。ほかのすべての人物の行為については納得できたのに、矢原だけが、何か疑問の一人物として私の心に引っかかって離れなかった。 [#ここで字下げ終わり]  その矢原が老人になった姿で馬屋光子の前にあらわれる……武田泰淳氏は、フィクションの人物として矢原老人を登場させることによって、百合子さんの血の物語とかつての事件を小説の中で結びつけた。  さて、「未来の淫女」をきっかけにして、武田泰淳氏と百合子さんの当時における関係が焙り出されたような気がする。しかし、これはあくまで作品から想像した現実である。ただ、武田泰淳氏の「自作ノオト」や埴谷雄高氏の言葉をかさね合せてみれば、そこから想像される現実は、それほど歪んだ像ではないという気がする。  しかし、�血族�をクローズ・アップさせた以上、百合子さんの実の弟である鈴木修氏の話を聞いてみなければなるまい。鈴木修氏は埴谷氏の言葉の中にも登場したし、武田泰淳氏の作品の中にもその影を見せている。それに、百合子さんを通じて、私もその名を知っている人なのだ。  武田泰淳氏の死後、『海』編集部全員が百合子さんを囲んでの飲み会をやったことはすでに書いたが、ある日、その会におそろしく豪勢なものが酒の肴として出てきた。それは、ペンキ罐ほどもある大きさのキャビアの罐詰だった。上を切り開けてみると、その分だけ上にはみ出したキャビアが、いわゆるそのへんのキャビアでなく、やんごとない品物であることはすぐに分った。それは分ったものの、あまりの分量の多さに手が出なかった。すると百合子さんは大き目のスプーンを皆に手渡し、「これですくって食べればいいのよ」とすすめた。しかし、クラッカーの上に少量のキャビアを載せたのでさえ、年に何度とはありつけぬ立場には、大きいスプーンで豪快にキャビアをすくって食べるなど、思いもよらなかった。 「大丈夫よ、あたしの弟がロシアとの貿易の仕事してるんだから」  百合子さんは、そう言って私たちを励ました。私たちはその言葉に背中を押されるようにしてスプーンですくって口に入れると、あとは急に度胸がついて、次々とその贅沢なキャビアを食し、ワインやアルメニア・コニャックを飲みつづけたものだった。ところで、�弟�という言葉を、娘である花さん以外に身内のことを喋らぬ百合子さんが、ときどき口にしていた。そのことが私の記憶の一角にあった。私の中で鈴木修氏の名前がしだいに重さをましていった。武田泰淳氏の死後かなり経ってから、百合子さんは鈴木修氏が駐在員として暮している西ドイツの町で、一か月あまりの夏を過したことを、「還暦の旅」という題の文章に書いている。百合子さんにとって年のはなれた弟である鈴木修氏は、よほど気のおけない安心できる存在だったにちがいない。 「実はですね、百合子も私も鈴弁の血縁ではないんですよ……」  鈴弁事件に話題がおよんだとき、鈴木修氏はなかば当惑気味に、そう言って笑われた。血縁としてのつながりはないが、家としてのつながりはある……鈴木修氏はそのように言葉をおぎなった。  百合子さんや鈴木修氏の父親が、鈴木弁蔵に見込まれて娘と養子縁組をして鈴木家に入ったのが真相で、そのあいだに二人の子供が生れた。一番上の兄と百合子さんの上の姉がそれに当り、この二人はたしかに鈴木弁蔵の血統の子供ということである。  やがて妻であった鈴木弁蔵の娘がなくなり、父親は再婚した。その再婚の相手が百合子さんと鈴木修氏の母親なのだ。鈴木修氏はわざわざ鈴木家の系図まで持って来て説明して下さった。 「このことを知っている人はほとんどいないでしょう」 「泰淳さんはどうだったんでしょうか」 「武田さんには、姉はある時期に話したのではないかと思いますが……」 「泰淳さんが、あの『未来の淫女』を発表したときは大変だったんじゃないですか」 「『別冊文春』にあれが出たときは、誰かが読んで教えたもんだから、うちは大さわぎになりました」 「そうでしょうね」 「何しろ、姉はちょっと前まで鈴弁の血統の孫である兄のうちにいたわけですから大問題です」 「……」 「実は、武田さんがあの小説を書いたとき、姉もこれは皆に読まれたら大変だと思っていたんです。それで、やっぱり大問題になった」 「鈴木さんも何か言われましたか」 「百合子とつき合っているのはお前だけだから、こんなの書かすなと言ってこいと言われましたよ」  鈴木修さんがさっそく会いに行き、家で大騒ぎになっていると伝えると、百合子さんは「やっぱりそう?」と言ったという。しかし、武田泰淳氏への苦言は自分で伝えなさいと百合子さんに言われ、しぶしぶ会うことにした。そのとき百合子さんは、自分が鈴弁と血がつながっていないことは言わないでほしいと念を押したという。 「武田さんは当時、百合子という面白いキャラクターを大事に思っていたんです。姉はちょっとオッチョコチョイなところがあるから、あたしゃ鈴弁の孫娘よ……なんてことを言ったんでしょう。姉としては、つい口をすべらせて血族みたいに言ったものだから、本当のことを武田さんが知るのはまずいと思ったんじゃないでしょうか。だから、それは言わないでほしいと」 「で、修さんは泰淳さんと会われたんですか」 「ええ、会いました」 「血統のことについては……」 「言いませんでした」 「……」 「わたしは学生でしたし共産党でしたから、あなたは人民の苦労が分らないなどと言ったのをおぼえています」 「泰淳さんは何と?」 「武田さんは閉口してしまって、分った、修ちゃんもう言わないでくれ、などと言っていました。俺書かない……そうも言ってましたね」 「もう書かない、と」 「武田さんがあのあと印刷しないというのは、姉がある時期そういう話をしたんじゃないかと思いますがね」 「しかし、それは謎ですね……」 「ええ、いまだにそれは分りませんね」  鈴木家にとって、鈴弁事件というのは禁句だったという。子供の頃、鈴弁事件のことを聞いても、誰も返事をしなかった。家に大きな蔵があり、小学生の頃に修氏がそこへ入っていろいろな物を見ていたら、「鈴弁事件」という小冊子があった。それを読んでいたから子供はみんな知っていた。子供の頃、近所の人たちから「あれは鈴弁の孫だ」と言われて何のことだろうと思っていたが、それでそういうことかと分ったそうだ。  しかし、鈴弁との血のつながりがないことを言わないでほしいというのは、百合子さんにまたひとつの色を加えたくなるセリフだ。百合子さんはつい口走ってしまった言葉に、武田泰淳氏があまりにも強い反応を示したので……いや、それだけでなくその反応が武田泰淳氏の脳ミソを一撃したあげく、そのことによって武田泰淳氏がこれまで手にしなかった何ものかをつかんだという直感が百合子さんに生じていたため、事実にからめたフィクション部分をそのままにしておきたいと希ったのではなかろうか。  それゆえ、その後に鈴木家の家庭の事情や、血統部分についての修正を、百合子さんが武田泰淳氏に伝えたとは思えないのだ。それは、自分の言葉に武田泰淳氏が強い反応を示したその瞬間に、彼女がすでに覚悟していたことであったにちがいない。  武田泰淳氏は、たしかに「未来の淫女」と「続未来の淫女」すなわち「血と米の物語」を全集に入れていない。それは、この長篇小説が完結していないせいでもあったが、これらの作品が自分に作家としての新しい生命力を手にするきっかけを与えてくれたという思いと同時に、それをふたたび世間の目に触れさせぬ方がよいという考えが生じたせいではなかったか。鈴木修氏の訪問によってか、作品を話題にしたときの百合子さんの表情によってか、武田泰淳氏は直感的にそうすべきだと判断したはずである。  フィクションをそのままに……という百合子さんのセンスの色は、その後ずっとつづく武田泰淳氏との夫婦生活をも染めていたという気がする。そして、武田泰淳さんもまたその色を別の流儀でキャッチしていた。話すときに相手と目を合せることをせず、対座してしばらくは真空状態のようなムードがながれる武田泰淳氏と、覗き穴からおずおずと怯えながら外をうかがう少女の目を一瞬見せる百合子さんの二人が、背中合せに持ち合せた共犯意識……その空間は誰も足を踏み入れることのできぬ色に染められていたのではないだろうか。  私は、ようやく鈴弁事件というショッキングな事実と、百合子さんのつながりを腑分けできたという気がした。そして、弟の鈴木修さんから百合子さんの別な時間をお聞きしようと思った。百合子さんの鈴木家の令嬢としての姿と戦後の�ランボオ�時代の落差には、すさまじいばかりの開きがある。武田泰淳夫人の前歴として、たしかに�ランボオ�時代は申し分のない資料だ。だが、あの百合子さんの光彩を思うならば、さらにその向うによこたわっている、鈴木家における時間の色がそこに滲み出ていないはずがない。武田泰淳氏との出会いの前に、百合子さんはいったいどんな色を発していたのであろうか……。 「幼ない頃の百合子さんの印象は、弟の目からはどんなでした?」 「音感がよかったですね」 「まず、音感ですか」 「女が三人いましたが、真ん中が死んでしまって、一番下が百合子で、母がすでにこの世になかったせいもあって父親がとてもかわいがって大事にしましてね、小さいときから琴・三味線を強制的に習わせた。長唄も、九つくらいからやっていたんでは……」 「百合子さんが、琴・三味線・長唄ですか」  私は少しおどろいたが、花さんが「そういえば十年くらい前、母が通信販売で組立式の三味線を買ったことがあった」と言っていた。一度いじっただけですぐにしまったそうだが、それを聞いて私は河口湖の山荘にあったギターを思い出した。  初めて私が山荘を訪れたとき、壁に架ったギターを取ってボロンボロンやっていると、百合子さんが面白そうにながめていた。私がギターを習おうかなと呟やいたら、百合子さんは「じゃ、これ貸してあげる」と言って、カルカッシ・ギターの教則本をさし出した。それは、深沢七郎氏にギターを習ったときに借りたものだと言われた。私はそれをまたお借りしたまま、ろくに練習もせず習いにも行かぬままだったが、深沢七郎氏から百合子さんへ、百合子さんから私へと伝わった教則本は、いま私の部屋の本棚に遺品のごとくおさまっている。私には苦手なギターだったが、百合子さんはけっこう上手に弾きこなしていたのかもしれない……私は、花さんの話を聞きながらそう思ったものだった。 「うちにオルガンがありましてね、姉は小学校で習った曲は、帰って来てすぐ弾けました。歌も好きでよくうたっていましたね、灰田勝彦の�男純情の……�っていうのが大好きでした」  自らを音痴と称する鈴木修氏にとって、音感の鋭い百合子さんは、それだけでもあがめるに足る年の離れたお姉さんといった趣きだ。 「百合子さんの恋愛の筋道は……」 「恋愛の筋道っていうと?」 「初恋みたいなものは何か記憶に残っていませんか」 「私の三つ上の兄がいましてね、その兄の中学の同級生だったY……これが初恋でしょうね」 「ほう……」  私は、Yという名前を聞いて、武田泰淳氏と結婚する前まで、百合子さんの恋人であったという噂のある劇作家のY氏と同一人物かと坐り直した。 「戦争中、灯火管制のときにYがレコードを持って遊びに来た。彼のところには蓄音機がなかったんでしょう。そのレコードはチャイコフスキーの『白鳥の湖』、それをみんなで聴きました」 「それが恋愛の発端……」 「いや、そのときは何も起らなかったですね。姉はあの頃、何にでも感心していた。思春期というんですかね。Yのことを�するどい�なんて言って感心していました」 「淡い初恋、くらいのものですか」 「そのときはね……」  戦争が終り、百合子さんも修氏も山梨へ疎開し、しばらくして東京へ帰った。百合子さんと修氏は、真ん中の兄とともに一番上の兄のところに寄宿していた。 「姉は一時、海音寺潮五郎のところで筆耕のようなことをしていたんです。新聞広告で秘書を募集していたのに応募して採用されて、海音寺邸へしばらく通っていましたが、これはすぐやめた。姉は、編集者的な仕事を選ぼうとしていましたね。で、ランボオの持ち主の森谷さんの昭森社に行く。いや、その前にちょっと行商のようなことをしていた時期があるな」 「行商……」 「浅草の田原町の先に、チョコレート問屋があった。そこの一番上の姉がつれあいを亡くして、妙蓮寺の境内でまんじゅう屋みたいなのをして、子供を養っていたんですが、それを姉が手伝って……そんなとき、Yが突然あらわれたんですよ、百合子さんいますかってね」 「同級生のお兄さんをたずねてじゃなくて……」 「ええ。Yはまだ山形高校の学生だったけれど、姉の方から山形高校へ訪ねて行ったのかもしれませんね」 「Yをたずねて、ですか」 「そうです。あの頃、姉は大変な厭世思想にとりつかれている時期で、もう死にたい……みたいなふうで」  百合子さんと同じ部屋にいた頃、庭に面した部屋の窓のところに、Yが来て百合子さんと話をしているのを何度か見た、と鈴木修氏は言った。また、百合子さんがふっと家からいなくなったことがあったが、皆は口がひとつ減って助かるといった時代で、あまり心配しなかった。 「百合子さんがいなくなったのは、Yのところへ行ったということですか……」 「そうですね。その頃の記録がYの書いた『放心の手帖』で、そこに出てくる主人公の理恵は姉ですからね」 「へえ……」 「二人で行商をやっていたわけだし」 「二人で行商を?」 「チョコレートを仕入れてお菓子屋に卸すのを、途中で食べちゃったり、あまり儲からなかったかもしれませんね。化粧品なども扱ってましたね。カバン持ちをするかわりに小遣よこせといって、二人にくっついて歩いたこともありました。一億総ブローカーの時代でしたから、私なんかも醤油とか長靴を持ち歩いて稼いでいましたよ」 「百合子さんは、Yとは同棲していたんですか」 「同棲はしていなかったはずですけれど」 「男女の関係はあったとお思いですか」 「さあ……」 「百合子さんのランボオの時代とはどういう関係になるんですか」 「姉がランボオにつとめ始めた頃は、まだYと仲が良かったでしょう。そこへ武田さんがドーンとあらわれたわけだ」 「すったもんだはなかったんですかね」 「最初は、武田さんが姉を追いかけていって……しかし、Yと武田さんのゴチャゴチャもなかったし、姉とYとが深刻な問題になるというのもなかった。あっという間に流された……そんな感じが強いですね」 「分るような気もしますが」 「奥沢の家から通っていて、毎晩遅い姉を武田さんが送って来て、坂の上で接吻をしているのを私は見ている。それは年輩者と若い女の、『昼下がりの情事』のような影法師でしたね。しょっちゅう送って来るので、上の兄が気がついて、変な男に送られると近所で評判になるからやめろなんて言っていたんですが、そのうち姉がポンと家を出た」  ポンと家を出て、そのあとは武田泰淳氏との時間が始まったのだろう。  私は百合子さんから一度、「Yの戯曲なんかどう思う?」と言われたことがあった。文芸誌に掲載されたY氏の戯曲についてだったが、私がそれに何と答えたかはおぼえていない。しかし、私が武田泰淳氏の担当になってからだから、Y氏との別離からはかなりの年月が経っている。花さんにも、あるとき百合子さんが新聞広告を見て、「Yさんってこんな芝居書くのか」とひとりごとを言っているので、「Yって知ってるの?」と聞くと、「知ってるよ」と言ったが、それ以上は言わなかったということがあったそうだ。Yとの時間は、百合子さんの中で決して表面へは出ないが、いじらずに大事にしておきたいもののひとつだったのだろうか。  中村真一郎氏を通じて百合子さんと知り合い、晩年の親友のひとりとなった女優の加藤治子さんの言葉からも、百合子さんが大事にしていたものに対するヒントがうかがえた。そういえば加藤治子さんもまた、百合子さんの明るい色と暗い色に気づいていたと言っていた……そのことを私は唐突に思い出した。  加藤さんと百合子さんは、一緒に温泉に行ったり酒を酌み交わしたりした仲であり、その中でポツリ、ポツリと百合子さんは本音を口にしたようだ。終戦の日にかならず井伏鱒二氏の『黒い雨』を読み返す習慣とか、美空ひばりのコマ劇場のショーを見に行ったときの話とか、自分の書いた文章についての批判に敏感な一面とか、晩年の病気に対する自覚めいた言葉とか……女性の親友でなければ口にしないようなことを、加藤さんは何度か聞かされたという。ここにもまた、張り合わせればひとつの輪郭をつくるであろう、百合子さんの色が見えている。  また、加藤さんがまだ文学座に在籍していた頃、Y氏の「三人の盗賊」という戯曲の地方公演のとき、百合子さんが見に来たことがあるらしい。二人のいきさつを知っている人が、「あれがYの恋人だ」と教えてくれたというが、このあたりの行動にも百合子さんの見えにくい色が示されているのではないだろうか。花ちゃんに、私に、加藤治子さんに、そしてその他の何人かに……百合子さんは自分とY氏を結ぶ点線みたいなものを垣間見せているというわけだ。  いじらずに大事にしておきたいものでありながら、それを秘密の中に閉じ込めようとしない神経は、何となく百合子さんらしいという気がする。密閉し、鍵をかけてしまい込んでしまえば、いつかそれを大袈裟な手つきで開けかねない。そんな自分にフェイントをかけるように、とりあえず鍵だけは開けておき、淡々とした過去の思い出というふうに扱っておくスタンスは、やはり百合子さんらしい流儀なのである。 「放心の手帖」(昭和二十一年十二月一日発行『世代』十二月号)というY氏の日記体の作品の中には、主人公の「僕」と「理恵」という女のあいだにある、どうしようもない溝をあらわす言葉が次々と出てくる。「理恵」はやはり、百合子さんに似ている。「理恵」は「未来の淫女」における「光子」ほどに強い輪郭で描かれてはいない。しかし、この作品における「理恵」を見ていると、やはり百合子さんの中にあるひとつの色という気がしてくる。 [#ここから1字下げ] 「人に親切にされると、いやね。」と理恵さんが云う。 「意地悪されれば、もっといやだね。」  僕がそう云うと、 「ふふふ……」  理恵さんはおかしそうにわらってしまう。それで会話はおしまいになるのだ。  ガアベラの花を持って出て来た理恵さんは僕にそれをくれた。 「あんまり好きな花じゃない。」と云わない代りに、「ありがとう」と僕は云わないで花を受けとった。  帰り路の鉄橋の上からガアベラを捨てようとするのを、僕はからだいっぱいでこらえている。  翌日、僕のその努力を理恵さんに云うと理恵さんはこう云うのだ。 「捨ててもよかったのに。でも、ごみために捨ててくれなきゃあいいな、と思っていたわ。」  ガアベラは萎れるまで僕の机の上にあった。  善良な人間には気にすることが難かしい、こまかい善良さを理恵さんはいろいろ知っている。そしてそのすべてに絶望して、いきなりこんな風に云う。 「あたし、十年経つと、観音様になる。」  ふだん、来年の事を考えるのが本当におかしくてできない、と云っていた理恵さんのことだから、十年経つとと云うのはまあ死んでからと云うような意味なのだろう。  僕も言葉の対照上、何かになると云わなくてはいけないかと思ったが「キリストになる」などとは云えなかった。  理恵さんのは女のうち馬鹿じゃないが、やっぱり、女として馬鹿だ。 「いい人って、遠くから見ているといいけど、つきあってみると、大抵つまらない……」  と理恵さんが云う。  僕は鴉を想い出す。 「鴉、好きだって理恵さん、云ったけど、本当に好きなの?」  僕は誰でも鴉なんて鳥は嫌いだと思っていたのだ。 「好きだわ。でもね、嫌いよ、てちょっと云ってみたくなるような、そんな風な気持よ。」  嫌いよ、か。僕はにがい顔をした。  理恵さんが僕に何の関係もない、他人のように思われてくることがある。  勉強しなければならないと云うこと、理恵さんと別れなければならないと云うことは何の関係もないことなのだけれども、二つの考えはいつも一緒におこる。 「僕と理恵さんが、誰かと結婚しているんだったらもっと面白いのにね、今にそうなるからいいわけだけれど。」  僕は理恵さんのなかにある可能性を愛するのだ、そして僕のなかにある……。  僕はいつまでも淋しそうな顔をしているだろう。  それは一番確かなことだ。  そして理恵さんは、いつまでも十年経つとをくりかえしているだろう。  それも、一番確かなことだ。  どちらかが二番目だとしたら、もう少し僕たち幸福になれるんだろうに。 [#ここで字下げ終わり]  ここには、小娘の天賦の面白さに魅入られる老獪な大人の目はない。どうしようもない距離を意識しながら、それ以上近くも遠くもなることのできぬことへの苛立ちが、虚無的な匂いをもってかもし出されている。奔放な女性に翻弄される青年の、繊細すぎるセンスがふるえている。  私は、これを読んで何だか清々しい気分になった。救われる気持が生じたといってもいいだろう。  これまでにも、Y氏と百合子さんの関係について耳にしたことがあったが、私はいまとはまったく別の受け取り方をしていた。�ランボオ�の人気者であった百合子さんには、多くの男たちが言い寄っていた。私が知る作家の名前もあり、Y氏もその中に入っていたという認識だった。そこへ一世代上の作家・武田泰淳があらわれ、一も二もなく百合子さんをさらってしまった……そんなイメージだったのだ。戸籍謄本のエピソードは、永井荷風を気取ってとは思わなかったが、きわめて武田泰淳らしい余裕の行為だというふうに感じていた。Y氏が直前まで百合子さんとかなり親しい仲だったこともうすうす知ってはいたが、したたかな大人に若鳥を引ったくられ、放心して手をこまねいている青年の姿とかさねていた。  だが、「放心の手帖」を読むとそれとはまったくちがう、百合子さんとY氏の確乎たる関係が見えてくる。形を成さず、幼なくふるえながら、まったく別のセンスで頭でっかちな二人が、儚《はかな》くもあやうい青春の均衡を保っているのであり、それは世間に蹂躙され破れることを前提としながら、しかし決着のつかぬままの痛々しい人生の|綱渡り《タイトロープ》である。  もし、百合子さんが別離のあともY氏との時間を大切にあたためていたとしたら、そこにはあきらかに百合子さんの色を認めないわけにはいかないではないか。つまり、戦後のさまざまな時間を生きていたというだけでも、天賦の才能をもって奔放に生きていたというだけでもない、人間の寸法に沿った青春の時間をも、百合子さんはしっかりとつかんでいたということなのだから……私は、とてつもないことを発見したような思いに浸った。  文芸雑誌の編集者の頃の私は、ともすればしたり顔の玄人好みのまとめ方に傾いていたのかもしれない。自分では反対の方へ神経を引っ張っていたつもりでも、文学関係のエピソードを、その業界の力関係や秩序によって見ようとする感覚を、無意識のうちに身につけていた可能性は十分なのだ。そんな私から、百合子さんとY氏の関係は死角に近かった。たとえ見えていたとしても、そこに何ら比重をおくべき価値を見ようとしていなかった。これこそ、迂闊というものであろう。  そうやって思い返してみれば、武田泰淳という作家の存在が、いかに大きいかを痛感せざるを得ない。武田泰淳という、埴谷雄高氏の言われる�否定を底にもった肯定�という伸縮自在の摩訶不思議な世界の中に、すべての風景が吸収されてしまう。だからこそ、百合子さんはそれまでの自分のいっさいをフィクション化してしまう隠れミノである武田泰淳という幻の衣の内側に入ってしまったのだろう。  人々は、すべて武田泰淳氏の世界の中にいる百合子さんを見ようとする。その幻の衣の中で、百合子さんが自分だけの卵を抱いていたとしても、もはやそれは誰の目にも映らない。鈴弁事件は世間に発表されてもよかったが、Y氏との時間を陽に晒すことはできない。この構造は十分にあり得るのである。  あたしは無心でも、無邪気でもないんですって。あたしは放心しているんですって……『放心の手帖』のタイトルのよこに印刷された小さな活字は、そういう言葉を綴っている。そういえば、私が最後に会ったパーティにおける百合子さんのあの虚ろな目にこそ、�放心�という形容詞がもっともふさわしいのかもしれなかった。 [#改ページ]   第四章 泰淳夫人の色  武田泰淳氏と百合子さんの結婚は、一九五一年(昭和二十六年)の十一月である。それから武田泰淳氏の死まで、二十五年のあいだ夫婦生活はつづく。百合子さんにとってこの二十五年は、世間に向けて堂々と言い放つことのできる、幸せな時間だったにちがいない。そんな中で、ひとり娘の花さんは生れ、育っていった。  私が赤坂の武田家をはじめて訪問したとき、花さんはたしか高校三年生だったはずだ。だが、私は花さんとはペコリと頭を下げ合うくらいのもので、とくに何かを喋り合ったという記憶がない。花さんは、外から帰って来たときに私がいると、ペコリとお辞儀をして二階へ行ってしまうことが多かった。遠藤賢司のレコードを借りたことがやけにあざやかに残っているのだが、その前後にどんな会話のやりとりをしたのか、それはおぼえていない。ただ、『海』に連載中の「富士」に、その曲の中に出てくる「ほんとうだよ、ほんとうだよ、ほんとうだよ……」というフレーズが使われていたので、武田泰淳氏も花さんの感受性に耳をかたむけていたんだなと、漠然と思っていたのはたしかだった。  しかし、武田泰淳氏の死後は、『海』の編集部が月に一度くらい武田家をおとずれたので、花さんと話す機会は多くなった。たまには話の輪の中に入ることもあるが、ほとんどは話の外にいて、ときどき笑っていただけという印象だった。私は、花さんの感受性は百合子さんに似ているなと思っていた。たまに私たちの話に対して反応をするときの気分、神経、呼吸といったものが似ていたのだ。そして、ふと何かを思いつき、それを頭の中でなぞってから口に出そうとしている、その表情も似ていた。  しかし、花さんが木村伊兵衛賞を受賞する写真家になるなどとは、まったく想像もしていなかった。花さんは、詩を書くようになるか、誰かとてつもない異端の芸術家的存在の理解者になるか……そんなふうに私は見ていた。  百合子さんは、武田泰淳氏が最後に入院した病院で、看護婦さんに「患者さんの性格は?」と聞かれ、即座に「ガンコです」と答えて、塙『海』編集長や私のみならず、それから一週間後に逝った武田泰淳氏をも吹き出させてしまったが、ガンコという点については花さんも父親ゆずりのところがあるかもしれない。百合子さんもガンコなのだろうが、それが見えにくいところがあった。しかし、花さんは一見してガンコそうに見え、よく見てもやはりガンコというタイプだ。それゆえ、百合子さん的な全肯定の感覚が内側に包まれているのかもしれない。とにかく、花さんだって只者でないことは、私も十分に承知していたのである。  したがって、百合子さんという謎めいた女性を探るのに、至近距離からずっと見つづけた花さんの目を借りぬ手はない。私は、河口湖の山荘にご主人とともに泊っている花さんをたずねることにした。中央線で河口湖まで行った私を、花さんとご主人が車で迎えに来てくれた。かつては武田泰淳氏を乗せた車を百合子さんが運転していたが、花さんはご主人の運転する車に乗せてもらう立場らしい。花ちゃんは全肯定の優しいダンナと一緒になったのかな……そんなことを思いながら、私は後部座席から花さん夫婦の会話のやりとりをぼんやりとながめていた。 「武田山荘」と書かれた看板みたいな表札を読んで入口を入り、かなり急な坂道を降りて行って、建物の下側を左へ回るとベランダが……私は、かつてのなつかしい記憶を思い出しながら、百合子さんと武田泰淳氏が夏を過し、『富士日記』の舞台となった山荘の部屋へとやって来た。木のテーブル、椅子、壁掛けの機《はた》織り、南国風の仮面、中国の影絵細工、二段ベッド、壁にかかったギター、ソファ、絨毯、電蓄、トースター、棚におさめられた六〇年代ポップスとクラシックのレコード、武田泰淳氏が切り花さんが貼ったというステンド・グラス、歌舞伎における�二階の一間《ひとま》�といった感じに見える障子……すべてが、かつてと同じ風景をつくっていた。  チャンネルはさわらない、下のボッチをまわしてかえる……テレビ操作についての注意書だが、これはおそらく花さん向けだったのだろうが、武田泰淳氏もこういうことは苦手にちがいない。「アンテナの方向は変えない事、チャンネルは『U』に固定する事、UHFのボッチを『30と40の間』から『30と20の間』をゆっくり動かす。映像が固定して出ると色がつく。(カラーのつまみはそのあとで動かして調整すること)」、テレビを映すのはこんなにむずかしい作業だったかと首をひねりたくなるほど、執拗に手順を説明してあるほほえましいボール紙が、テレビの脇にぶら下っている。この家の電気器具関係を扱う能力のレベルが、これを見れば歴然である。 (まあ、こういうことには向かない一家だったからな……)  私は、そんな呟きを呑み込んだ。第一、私は百合子さんが車を意外に上手に運転したり、花さんがカメラという厄介な代物をプロとして操るなどということが、いまだに理解できずにいるくらいなのだ。 「あのね、父が亡くなったとき深沢七郎さんと対談して帰って来て、�やられちゃった、深沢さんに負けちゃった、ズルイ!�ってお母さんが言ってたのおぼえてる」  私が、壁のギターを手に取ってかつてのようにボロンボロンと、ウクレレのコードで心もとなく鳴らしているのを見て、花さんがそう言った。私は、ギターを壁にもどし、花さんの方へ向き直った。父と娘でつくったステンド・グラスが、部屋の中に不思議な模様をつくっていた。 「中央公論新人賞の選考委員会で、父が深沢さんをほめて、それ以来、深沢さんが家に来るようになって、それで母とも親しくなったの。で、ギターなんかも教えてくれるようになった。�風流夢譚�のときなんかも、刑事つきで赤坂のマンションへやって来たことがあってね。その頃は深沢さん、黒いギター・ケースの中に、本でも原稿用紙でも何でも入れて持ち歩いていたの。うちのお父さん、深沢さんのギターの弾き語りを聴いて、泣いていた……」  深沢七郎氏に対する武田泰淳氏や百合子さんの思い入れはよく知っていたし、深沢氏の武田泰淳氏への感謝の気持も私は知っていた。しかし、花さんには子供が成長過程で感じた母親像を聞かねばなるまい。 [#ここから1字下げ]  私が生れたのは、荻窪の病院。天沼あたりに父と母が下宿していたときじゃないかな。赤ん坊の頃、鵠沼海岸にもいたらしい。鵠沼にいた頃は、母が派手な水着を着て、泳ぎがうまいから、私を砂浜に置いておにぎりを持たせて泳いでいたみたい。途中で心配して見ると、私が波をかぶっておにぎりを持ったまま引っくり返っていたらしい。  うんと小さい時、お寺から私を連れて出かけた時、いまの渋谷の百軒店あたりに進駐軍の洋服を売っているところがあって、そこで洋服を買ったのを覚えている。  映画、三本立てをよく見に行った。錦之助や千代ノ介……錦ちゃん祭に千代ノ介のサイン入りの扇子を、手に持っていたのをおぼえている。母は、股旅物が好きだった。中目黒のお寺にいる頃は、父の母、おばあちゃんも一緒に住んでいたので、おばあちゃんや女中さんなど、皆で一緒に映画に行ったりした。  母のよく着ていたまっ黄色の、レモン色の洋服を覚えている。きれいにパーマをかけて。あと、縞のハイヒール。素敵な、布で出来ている立縞のハイヒール。けっこう高いヒールの靴で、それはよほど気に入っていたらしく、ボロボロで履けなくなっても持っていた。それで、黄色いスーツかなんか着ていたみたい。  私は小学校から高校まで立教女学院だったけど、PTAや父兄参観日なんかに、母はサンダル、ビニールのふつうのサンダルをつっかけて来ていた。サンダルがあるとおかあさん来ているなと……ほかのおかあさんはハイヒール。  中学のときから寄宿舎に入っていた。よく、夜電話があって、�これから行くからね�と赤坂から車で、お菓子や着替えを持って来てくれた。夜中には門が閉まってしまうので、門の鉄格子のあいだからお菓子なんかくれると、涙が出そうになって困った。三十二、三人寄宿舎にはいって、だいたい地方の娘さんが多かった。ちょっと頭のおかしい人が寄宿舎に入れるといいんじゃないかと思われて、そういう人がかならず一人はいた。  父は、私に直接きびしく何か言うということはほとんどなかった。「おはようございます」「いただきます」「花子、きょうはどこへ行くんだ」「学校へ行って来ます」「ただいま」「お帰りなさい」。学校のことは母にまかせていたので、成績も見なかった。かげで、母にきいていたらしい。私には、勉強しろとも何も言わなかった。母に言わせるようにしていた。お父さんが恥ずかしかったようで、それが私にも分るから、私も恥ずかしかった。つくづく話したような記憶はない。父が酔って帰って来て、たまたま私しかいない時、むずかしい話を勝手にしゃべっていて、いくら聞いても分らなかった。仏教と左翼運動の話……思いっ切りむずかしいんだぞっていうような話。高校の頃かな。  書斎に子供を入れない人だったので、父が何屋さんか分らなかった。小学校の頃、友だちが�花ちゃんのお父さん、作家だよ�って教えてくれた。父と母は、私に父の本を見せなかったし、読ませないようにしていた。置いてあっても、さわっちゃいけないものだと。だから、高校まで読んだことはなかった。  よその家とは、何となくちがうなあとは思っていた。父と母がいつも一緒にいるから、仲が良いなあとも思っていた。お客が来たとき、気に入った人だと母も出て来てよくしゃべったけど、お客によるようだった。そういう意味では、好ききらいがはげしい人だった。  夫婦喧嘩は、一回だけ知っている。蓼科の貸別荘の一軒家を借りたとき、雷のすごい晩に父と母がすごいケンカをしたことがあった。小学生の頃だったような気がする。ウワーッというようなすごい言い合いで、こわくて隣の部屋にかくれていた。その晩、母と私が一緒の部屋に寝たら、母が寝言を言った。夜中に雷がまだ鳴っているとき、�あなた、頭が割れてますよ�って、大きい声ではっきりと言って、すごくこわかった。蒲団の中でシクシク泣いてしまった。私はほとんど眠れなかったんだけど、次の朝、二人ともケロッとしていたので安心した。そのケンカのときの話を母とはしなかった。でも、雷の事故のニュースを見たりすると、�あなた、頭が割れてますよ�という声がすぐに浮ぶ。その寝言のことを一度だけは母に言ってみたけど、ただ笑っているだけだった。  はじめて車の免許を取るとき、母が毎日出かけて行くので、浮気でもしているんじゃないかと、父が心配したらしい。毎日、首をかしげていた。母は、何をするのでも父に言わずに事後承諾。ここの家(山荘)を買うときも、黙って見に来て買っちゃって、あとで伝えるだけ。  母が死んでからここに来て焚火したりしているとき、お父さんとお母さんて幸せ者だったんだなあって、はじめて思った。こういう生活して、お父さんは奥で原稿書いて、お母さんは焚火したり台所したり、二人ともとても楽しそうで、よくしゃべっていた。  父の代りに母が埴谷さん夫妻と、何かのパーティに出かけて、その帰りに二人でお酒を飲んだらしい。  夜中に父から、�百合子がいない�と起された。電話番号のノートを持って来て、�埴谷のうちにかけろ�と。自分ではかけないの。埴谷さんに�うちのお母さん帰って来てないんですけど�と言うと、�ええーっ!�と埴谷さんがすごくおどろいて、�百合ちゃんを家まで送って行って、いま吉祥寺へ帰って来たんだよ�と。�うちのお母さんいないって、お父さん言ってるよ�と私が言うと、お父さん向うの方で私の顔にらみつけて、もっと言えって怒ってる。埴谷さんは、�赤坂のマンションの入口まで送って行ったら、(母が)じゃあさようなら、おやすみなさいって手を振りながら階段を上って行ったので、ぼくはタクシーでそのまま帰って来た�って言う。  二階の廊下から落っこちたかもしれないって父に言うと、真っ青になって�花子、見て来い!�。すごいいきおいで見に行ったけどいないので、また埴谷さんのところに電話したら、�それは大変なことになった�ってオロオロ。お父さんもガタガタふるえている。  玄関のところへ行って下駄箱をあけたら、きょう履いていったハイヒールが入っているので父にそう言うと、�ええ!�って言うだけ。�お母さんのベッドをもう一度見てみよう�と寝室をのぞいたら、ベッドの壁のところにピタッとくっついて、フトンをかぶって寝ている。�寝てるじゃない�と父に言うと、�アヘヘ……�と笑ってから、�埴谷に早くあやまれ�と私に命令してフトンかぶって寝ちゃった。で、すぐ埴谷さんに電話すると、�俺、武田に殺されると思った。もし百合ちゃんに何かあったら、武田に殺されてもいいと覚悟してた�って。�寝てました�と言ったら埴谷さんも�ああ、そうか�だけ。  次の朝、お母さんにその話をしたら大笑いしていたけど、お父さんは一日中しょんぼりしていた。はじめからよく見ないで、埴谷のヤツ……と思っていたにちがいない。いつも、埴谷のヤツまた百合子をどこかへ連れ回してるんじゃないか、と思っていたふしがある。  でも、お母さんも酔っぱらうとすごかったから、廊下から庭へ落っこちることもあり得る人。いつもなら、ハイヒールなんか玄関におっぽり出して寝ちゃうのに、その日にかぎってちゃんと下駄箱へ入れちゃうから大騒動。  お母さんはけっこうニヒルだった、と思う。すごく明るくて、楽しい人だったけど、その裏に何かニヒルなものがあるのを、子供の頃から思っていた。もともと、�ニヒルな女�だったのかもしれない。一度酔ったときに�お母さんニヒルだものね�って言ったら、�わかる? そうかもしれない�と言っていた。  むかし、私が夜中に帰って来ると、部屋の真ん中に大の字に母が寝ていたことがある。そのとき、死んでいると思った。カップが二つ置いてあって、ビール瓶や何かが散乱していた。きょうは誰がたずねて来たんだろう、また小説か何か書いてくださいって誰かが来て、飲んでいじめたな……どうしてくれようと考えていたら、母が起き上った。�何だ、生きてたのかあ�と言ったら、�生きてますよお�だって。  ドイツに行く前、茶箱にメモやノート、手帖、原稿、父の死後の日記や何かが入っているのを、自分が死んだら焼却してくれとたのまれた。トランクにも、焼却のこと……と書いた紙を貼っていた。  入院するとき、本人は死ぬと思っていなかった、と思う。私はもしかしたら危ないですよ、とは言われていたけれど。五、六年前からお酒をひかえるようになった。肝臓がわるい、脇腹がはれるのは肝臓がわるいからだと言われてから。 [#ここで字下げ終わり]  以上は、花さんが独特のポツリ、ポツリという話し方で語ってくれた母親像だ。花さんの表情は、たしかに百合子さんに似てきたようだ。それにしても、これらの言葉の中には百合子さんらしさがあざやかに躍動している。  埴谷雄高氏の�事件�には笑ってしまったが、そのことについては埴谷氏も書き残しておられるので、花さんの証言とつき合わせるようにして聞いていた。申し訳ないが、埴谷さんの恐怖が滑稽感とともに伝わってきた。埴谷雄高氏は『戦後の先行者たち』の中で、その一件についてくわしく書いている。 [#ここから1字下げ]  百合子夫人は武田泰淳にとって天から地にわたる生活の一切そのものであり、影と形のごとくつねに相伴っていて、「百合子がいなければ武田家は崩壊だ」と武田泰淳自身屡々繰返していたほどであるが、百合子さんはビール好きなのに自動車を運転せねばならぬため殆んどつねに一、二杯しかのめず、そして「サーヴィス魔」の私は一瞬の切目もなく自分の全時間を拘束されて絶えず武田と離れずにいなければならず息も抜けない百合子さんへの「最大」の「同情者」で、たまたま百合子さんが武田の代理で何かの会へ出席すると、その帰りに必ず百合子さんを誘ってビールをのみ深更に及ぶので、埴谷のやつ、余計なことをしやがると武田は日頃から不満なのであった。(略)  それ以来、百合子さんが武田の代理で何かの会へ出るときは、必ず出がけに、「埴谷がバアへさそっても絶対に行っちゃあ駄目だぞ」と真剣無類な、五寸釘以上に大きな「釘」を幾度にもわたってさすようになったのである。 [#ここで字下げ終わり]  これが、武田泰淳氏がまだ帰らない百合子さんを待っている心理のベースになっていた。あるときから埴谷雄高夫妻、開高健夫妻、武田泰淳夫妻で「お花見会」がはじまり、三度くらいつづいたが、�「お花見会」の裏側�と埴谷氏は書いておられるのだが、開高夫人の牧羊子さんと武田夫人の百合子さんが、埴谷邸に集って、埴谷夫人とともに「三人の女だけの酒宴」が行われるようになった。花さんが話してくれたのは、ある日のその会のあとのことだった。 [#ここから1字下げ]  車中で、まだ飲む? と訊いた私に、うん、飲んでもいい、と百合子さんがいったので、新宿の茉莉花《まつりか》へ暫らく寄って赤坂へついたのは午前一時すぎであったろう。  日頃は必ず、赤坂コーポラスの二階への階段をあがり、武田家の扉の前まで送ってゆくのに、このときに限って、百合子さんが、酔っていない、大丈夫よ、といい、また事実、足取りもしっかりしていたので、私達(埴谷夫妻)はタクシーの窓から、百合子さんが駐車場のコンクリートの斜面をのぼり階段を上ってゆくまで見送って帰って来たのであった。  ところが、私達にとってまだ夜明けでない午前六時に電話のベルが鳴った。眠い眼で女房が出ると、花子さんの静かに落着いた声で、母はまだそちらにいるでしょうか? と訊いてきたのであった。私の生涯でまったくすがりつくべき一本の細い藁もないほど気が動顛したのはこのときだけで、電話の傍らに立っていた私は、しまった、扉の前まで送ってゆかなかったので、百合子さんは氷川神社裏の暗い谷底へ落ちた、とその瞬間思ったのである。赤坂コーポラスの各部屋へはいる通路の反対側には高い手すりがあって、そこから向う側へ落ちることは通常ないけれども、酔っていないと自身いったものの実は芯で酔っていた百合子さんはなんらかの具合でそこを乗り越え下の深い谷へまで落ちてしまった——そう私はもはや取戻しようもなく動顛しながら直覚したのである。花子さんは、父は四時頃から手帳を出してここへかけろというんですけれど、あまり早いからと私がとめて、今かけたのです、というので苛ら苛らしている武田が夜中ずっと起きていて、だんだん薄暗い不安におちこみ、ついに、埴谷のやつ、と抑えきれぬ怒りさえこめて花子さんをせっついているさまが花子さんの落着いている言葉の向こうに彷彿とした。  確かにコーポラスの玄関まで見送ったのだけれど——といったまま絶句している女房の後ろで、私は武田に一生会わす顔がなくなったと暗い海の底の底へ恐ろしいほど「底もなく」沈んでゆく気持になったのである。  すると、五、六分たって、また、花子さんから電話があった。——済みません、母は帰っていました、と日頃静かな花子さんには珍らしい高い笑い声を向うにたてて報告してきたのであった。  あとで百合子さんに聞くと、その夜はあまり酔っていなかったので、日頃になく——日頃は靴を玄関に脱ぎとばし、服はそこらに脱ぎすてているのに、その夜は、どうしたことか、靴はちゃんと隅にそろえ、服もすべてきちんと片づけて布団へ入ったのだそうである。それで、まだかまだかと苛ら苛らして待っていた武田が、百合子さんの部屋を覗いたとき日頃と違ってあまりよく整理されていたので、「そそっかしいことに」、それほど小さくない百合子さんの身体を覆った布団の「人型」の盛り上りに気づかず——そして、夜中起きつづけながら一秒一秒と絶えず全身全霊で「埴谷を呪いに呪って」四時頃から花子さんを起こし、電話をかけろ、かけろと執拗に言いつづけていたわけである。ははあ、こんどは武田が暫く俺に会わせる顔がないな、と暫く哄笑したものの、その夜明けの激しい動顛と暗い底もない恐怖以来、百合子さんと飲んだときは真夜中の何時すぎでも必ず武田家の扉をあけてなかにはいる百合子さんを見届けてから帰ることになったのである。 [#ここで字下げ終わり]  それにしても、ここに登場する二人の作家は、いやしくも武田泰淳、埴谷雄高という戦後派の巨峰である。そのお二人がいったい何をしているのですか……私は、吹き出したくなってしまった。片や眉を吊り上げて娘に電話をかけさせたあと、事の次第を知ってしゅんとしぼんでしまい、片や電話をかける妻のうしろで立ちすくみ、「暗い海の底の底へ恐ろしいほど�底もなく�沈んでゆく」などというフレーズを浮べておどおどしている。まったく百合子さんという光源の、その人間が内包している才能や存在している立場を一瞬のうちに吹き飛ばして、その場の風景を自分の色に染めてしまう強さにはあきれるばかりだ。  しかし、花さんの話と埴谷雄高氏の文章の、何と具体性や強弱のかさなっていることか。あたかも、ひとつの�事件�が二元中継で伝えられているような関係が、両者の報告にはある。これはおそらく、その一件のあとで、埴谷氏、百合子さん、花さん、さらに武田泰淳氏までが参加して、日常の中でねりにねられたストーリーになっているためだろう。  このエピソードからも、百合子さんが安心して波に身をゆだねている図柄が浮んでくる。身をゆだねても大丈夫……戦後のある時期まで自分をつつんでいた不安や怯えが、武田泰淳氏や花さんとの日常生活の中で、ゆっくりと洗い流されていったのかもしれない。私は、百合子さんの手品によって滑稽な登場人物になってしまった武田泰淳氏と埴谷雄高氏を、ほほえましく思い浮べた。  私は、花さんの言葉の中で、焼却してくれと百合子さんが言い残したという、トランクと茶箱の中身はいったい何だったのだろうと思い巡らした。弟の鈴木修氏のいる西ドイツへ一か月の旅にふらりと出た……このことも、百合子さんの行動としては突飛のように思えなくもない。しかし、百合子さんにとって突飛とは何か……となるとなかなか答えは出にくいのであり、あの旅とても百合子さんなりの自然な行動であったのかもしれない。  その旅に出かける前にトランクと茶箱の中身(花さんによればメモやノート、手帖、原稿、武田泰淳氏死後の日記や何か、ということだったが)を、自分の死後に焼却してくれるよう花さんに頼んだということが、そのこととつながっている可能性はあるだろう。  百合子さんはそろそろ、自分の死のあとに残すべきでない物の処理を考えていた。しかもそれは、生きているぎりぎりまでは身近かにおいておきたいものであり、それらの物によって百合子さんは、何らかのかたちで生きる力を与えられている、そういうものなのだ。これはおそらく、百合子さんが自分の病気や命に対して、深刻に考えはじめたということではなく、そろそろそういう準備をしておくべき時期だという、漠然たる心境になっていたのではないかということなのである。 (それらはいったい何だったのだろう……)  花さんは、それらをもちろん百合子さんの言葉通りに焼却してしまった。百合子さんは、安心して天国で武田泰淳氏と再会し、どんちゃん騒ぎをしているかもしれない。焼却されたものについては、百合子さんは天国でも何も話さないだろう。そして、焼却されたものの内容を実は知っていたとしても、武田泰淳氏もそれを質《ただ》すことはしないだろう。百合子さんの心の裡は、今度こそ永遠に密封されてしまったということになる。 (答えは、やっぱり謎か……)  そう思うと、私の中にあの百合子さんのいたずらっぽい顔と、エヘヘという笑い声がよみがえった。  百合子さんが外で酒を飲むことに武田泰淳氏が強くこだわりはじめたのは、埴谷雄高夫妻とともに百合子さんが、辻邦生氏のところをたずねた日の出来事がきっかけとなっていたと、埴谷雄高氏は書かれている。辻夫人の手料理をご馳走になった帰り、地下の赤坂のレストランへ寄ったときのことだった。そこへ向う途中で、百合子さんが階段から足を踏み外しすとんと尻もちをついたあと、そのままの姿勢でごつごつと鈍い音をたて、二、三段ずり落ちた。酔っていたのがさいわいして、頭を打つこともなく無事にすんだが、脱げた片方の靴があたかも百合子さんの身代りのように、階段の下まで飛んだ。百合子さんによるそのありさまの仔細な報告が、武田泰淳氏の胸裡に長くわだかまっていた薄暗い不安と不満を、いっぺんに爆発させることになった……埴谷雄高氏の文章にはそのように説明されていた。  武田泰淳氏の薄暗い不安は、百合子さんと出会って以来のすべての時間から、ずっと胸の裡にわだかまっていたのだろう。それは、武田泰淳氏にしか分りようのない不安であり、当の百合子さん自身ですら感じ得ないものだったにちがいない。  しかし、物書き稼業に身をおく者が、たとえ寺の出身であるとはいえ、妻に外で酒を飲むことを禁じるなどという野暮を引き受けるのは、かなり勇気の要ることなのだ。それを敢えて実行した武田泰淳氏の気持は、痛いほど伝わってくる。武田泰淳氏は、それを親友の埴谷雄高氏まで動員し、ヤキモチめかして百合子さんにぶつけた。ぶつけることに苛立ちながら、そうするしか方法がなかった……私は、武田泰淳氏の意識の流れをそのように想像する。 (百合子さんの命をいちばん心配していたのは、やはり泰淳さんなんだな……)  私の胸に、そんな呟やきが湧いた。 [#ここから1字下げ]  女はひどく我まん強いたちであるが、その苦しさは、黄ばんだ顔にも、少しふらつく足どりにもあらわれていた。黒い毛糸の肩掛をすっぽりかぶり、素足にはいた少し壊れたハイヒールをコツコツ音をさせ、小さな身体で風を受けとめながら走るように歩いて行く。それは根が丈夫であり、無神経であり、楽天的である彼女にしても、妊娠一箇月の嘔気にたえずおそわれ、不眠の栄養不良で痛められ、睡る場所をうろつき探す現在では、かなり必死な姿であった。そのような涙ぐましい、可憐な歩きぶりではあったが、その坂を登って行く際は、その彼女がどこか滑稽な、笑い出したいような生物にも見えた。笑い出したいような生物……彼女には全く、そんな所があった。それが、私をいつも愉快にさせた。(「続未来の淫女」) [#ここで字下げ終わり]  この見定めは、武田泰淳氏だけのものであり、百合子さんにとっては自覚のない時間というのに近かったはずだ。こういう時間が百合子さんの躯の底にねかされている……そして、それは自分が責任を負わねばならぬ時間だという自覚が、つねに武田泰淳氏の中には渦巻いていたことだろう。それが、埴谷雄高氏のいわれる�武田泰淳氏の胸裡に長くわだかまっていた薄暗い不安�の芯というものにちがいない。  私が『海』の担当者としておとずれた武田家には、表面的にはそんな感じは微塵も感じられなかった。ただ、武田泰淳氏と対座してしばらくつづいている真空状態のような時間、それにドアを開けたときの百合子さんの少女のごとき怯えがかすめる表情が、あの赤坂コーポラスの武田家の印象として、強く私の中に残っていることは、どこかで武田泰淳氏の�薄暗い不安�につながっているような気がするのだ。  だが、百合子さんの命をいちばん心配していた武田泰淳氏は、百合子さんより十七年も先にこの世を去ってしまった。いわば百合子さんを置去りにした恰好になったのだが、その後の百合子さんの大輪としての開花を、武田泰淳氏は天上からどのようにながめていたのだろうか。  百合子さんは、物を書くという点ではつねにマイペースをくずさなかったが、端目には怒涛のごときいきおいと映ったはずだ。書くもの書くものが評判を呼び、読む者に刺激を与えつづけた。『富士日記』を読んだ者は、その誰にも似ていない輝やける感性に、目を射られる思いを味わったにちがいない。百合子さんは、�薄暗い不安�や�薄暗い不満�とはまったくちがう意味で、出口のない密室の中に封じ込められていたものを、武田泰淳氏の死をきっかけに一気に吹き上げたといった趣きだった。  その『富士日記』の舞台となった河口湖の山荘で、花さんの言葉を受け止めている武田泰淳と武田百合子の担当者……夕暮どきが近づき、ステンド・グラスのつくる模様が刻々変化する中で、私は不思議な感慨を味わっていた。そして、百合子さんの文章の才能に『富士日記』を読んで感動したものの、武田泰淳氏存命中の私の中に、それを予感するものがたしかな手応えとしてあったかと胸に手を当てると、それはなかったという答えが弱々しく絞り出された。それはおそらく、泰淳夫人を徹底的に演じている百合子さんの煙幕に、私の目がたぶらかされてしまっていたせいだろう。百合子さんは夫を天国へ送ってしまうまで、武田泰淳夫人を完璧に演じおおせたのである。 (しかし、焼却された謎の答えはいったい……)  またもや、同じ呟やきが躯の中を堂々めぐりしはじめたので、私は花さんに合図のような目をおくって、富士山荘のソファから腰を浮かせた——。 [#改ページ]   第五章 詩人の色  百合子さんの天賦の才能は、いつ頃から躯の外へ押し出されたのだろう。  もはや、武田泰淳氏の口述筆記などをしている影響で……といったアングルは抹殺しても文句は出ないだろう。それでは武田泰淳氏との出会いによって、その才能が育まれたという角度はどうか。これもまた、これまで見てきた推移から、あまり大きくうなずくことはできない。となれば生れつき……ということになるのだが、それは少し大雑把すぎる。天賦の才能であることはたしかだとして、それが躯の外へ押し出されるきっかけのようなものがあるはずだ。私はそれを、いま少しじっくりと探ってみたいと思いはじめた。  河口湖で花さんの話を聞いたとき、百合子さんと縁の深かった方、親しかった方の名前をあげてもらった。その中には私が百合子さんとお目にかかった方々の名前もあったし、初めて聞く名前もあった。その中で、百合子さんが泰淳夫人としてではなく、もっとも長く親しい仲をつづけていたという、女学校のときの同級生の小林やよいさんの名前が、私の耳にこびりついていた。母は小林やよいさんを敬愛していた、と花さんは言っていた。  小林やよいさんは、神奈川県立横浜第二高等女学校に入ってすぐ、百合子さんと同じクラスになったという。黙りこくって、暗いところで下を俯いて寂しそうなところと、大きな声で面白いことを言って皆を笑わせるところとの二面性をもっているというのが、小林さんが感じた百合子さんの印象だった。小林さんと百合子さんは、女学校三年(十四歳)から女学校の五年(十七歳)まで、『かひがら』という同人誌のメンバーだったそうだが、小林さんは思いもかけず当時の『かひがら』を、持って来て下さった。この中には、百合子さんの作品もあるということで、それを脇に私はわくわくして小林さんの話をうかがった。 「私や百合さんは、躯が小さくてオクテで、小学生みたいでした。金井さんや皆川さん、伊藤さんたち優等生がリーダーシップをとって、同人誌『かひがら』が始まって、私たちも声をかけられたんです」 「百合子さんは目立つタイプじゃなかったんですね」 「国語の時間に作文を書かされて、次の時間に面白いものをそれを書いた生徒に読ませたりしましたが、百合さんのは、やはり発想が面白かった」 「やはり……」 「あの子は面白い子だなと、だんだん皆に分っていった感じでした」 「百合子さんは、自分の作品を小林さんに送ってきたりはしなかったんですか」 「『富士日記』が出ても送ってこないし、私もまた買いませんでした。ずっとあとで読みましたが、『富士日記』の文章はいかにも百合さんらしくて、当時とくらべて意外だとか、ちがったなというところはまったくありませんでした」 「女学生の頃、百合子さんが好きだった作家は誰だったんですか」 「朔太郎の復刻版が出たとき、注文しないかと百合さんに誘われて、一緒に注文してもらったことがありました。第一回配本が『猫町』、三回くらいまでしか出なかったんじゃないですか」 「本は読んだ方ですか」 「ほかに楽しみがないから、手当りしだい読んでいましたね」 「おつき合いは、ずっとつづいていたんですか」 「戦争がありましたからね。再会したのは昭和二十八年、そのときはすでに泰淳さんの奥さんで、花さんを背負って、突然私の横浜の家にあらわれたんです」 「印象はどうでした」 「派手になったな、と。その前は金井さんという同級生が知っているんです。金井さんの熱海の家へ、百合さんがよく行ったらしい。熱海に出版社の寮があって、そこで文学関係の人が会合をして泊っていくんですけれど、百合さんは花さんと別な旅館に泊って、それで金井さんのところへ。真っ白いプリーツ・スカートにあざやかなピンクのブラウスを着て、ものすごくきれいにお化粧をして、真っ赤な口紅をつけて派手だった、と。ふつうの人はまだあの時代、地味な装《なり》をしていましたから、金井さんは派手な百合子さんにびっくりしたそうです。私たちは、母親の銘仙の着物をほどいて作ったモンペなどをはいていた時代ですからね」 「タイプも変っていたんでしょうか」 「これも金井さんの話ですけれど、百合さんは家を出てしまって食べるのが大変だったから、ありとあらゆることをしたと言っていたそうです。サルマタのゴムひもを売り歩いたのよ、とか。本当はゴムひもや進駐軍の口紅を売り歩いたんですけど、話をおもしろくして言っていたって」 「百合子さんの、話をおもしろくするセンスは分りますね」 「横浜のどこかのけっこうなビルへ入って行ってゴムひもを売ろうとしたら、相手の男の人が百合さんの顔をまじまじと見て、あなた鈴木百合子さんじゃないですかって言ったそうです。どうして私の名前をご存知なんですかって百合さんが言ったら、私はあなたと見合いをしたことがあります」 「見合いを……」 「百合子さんは全然おぼえていなかったので、いくら何でも恥ずかしくなって、アハハって笑っていたそうですけど」 「じゃあ、百合子さん見合いをしていたんですね」 「実家にいるとき、百合子さんを早く片づけようとして、次々といろんな人とお見合いをさせていたようで、それがいやになって家を出たように聞いています」 「そういうことがあったんですか……」 「百合さんは、第二高女のツンツルテンのすり切れて色もさめた制服を着ていて、かまわない恰好をしていたので、あんなにいい家のお嬢さんだとは思わなかった」 「はあ……」 「百合さんに�来ない?�って言われて行ったことがありますが、古い家で玄関が広くて敷台があって、その上に赤い毛氈《もうせん》が敷いてあって、屏風が立ててありました。で、十畳くらいの座敷に通されて、女中さんがお茶を持って来たのでびっくり。お父さんの画室があって、それも立派な部屋でした。緋毛氈が敷いてあって、絵の具や筆がたくさんあって、この人はこんなに立派な家に育ったのかと、びっくりしてしまって」 「勉強はできる方だったんですか」 「できましたよ。私が級長で、百合さんが副級長のコンビを組んだことがありました。シコシコ勉強してできるタイプではなくて、あまり勉強しなくてもできたんじゃないですか。家に帰ると、弟さんと屋根に上って遊んでいたようですし」  百合子さんが、広く大きな家で育ったことを、学校の友だちに知られていなかったというのはよく理解できた。小林さんの話をうかがっていると、少女時代の、何かを内に秘めた傷つきやすい感性がうかがえた。しかし、�見合い�というのは、これまで見てきた百合子さんとは結びつきにくい言葉だ。ゴムひもを売りに行った先が見合いの相手だったというのは、いかにも百合子さんが出会いそうな場面だが、これはもしかしたら百合子さん流の話術によるフィクションではないかという気もした。自分をスラップスティックに戯画化することにかけて、百合子さんは天才的なセンスをもち合わせていたからだ。 「ある日ね……」  それこそある日、百合子さんが例のいたずらっぽい、相手に挑むような目で私に言ったことがあった。 「あたしこの頃、すぐ近くの喫茶店で人に待っていてもらうことがあるのよ」 「ああ、ここを出てちょっと右へ行ったところの……」 「その人はね、いつも喫茶店を入って右側のところに坐って待っていてくれるの。それでついこのあいだも、その人にその喫茶店で待ってもらって、出ようとしたら長い電話がかかってきたもんだから、電話を切ってあわててその喫茶店へ駈けつけたの」 「ふんふん」 「でね、ドアを入るといつもの右側の席へ拝むような手つきで突進するように向ったら、その人が左側の席から声をかけたんだけど、そのときあたしどうなったと思う?」 「……」 「真ん中へダイビングしちゃったのよ」  これなども、たしかに人間の意識と肉体というのはそんな関係にあって、意識が分裂すれば肉体もバラバラに裂けてしまうということはある。しかし、そこへもってゆく話術もあって、いかにもあざやかすぎる場面のつくり方なのだ。しかし、百合子さんという人は現実にそんな場面を呼び寄せるようなところもあり、どっちにしても面白がるより仕方がないのだ。  また、百合子さんの『犬が星見た』が出版された直後のことだったが、自己戯画化の極致といった芸を味わわされた。 「あの題、いいでしょ」 「ああ、いいタイトルですね」 「あれ、どういうヒントでつけたと思う?」 「だから、�あとがき�にあるように、舗装道路の真ん中の野良犬が……」 「あれはともかく、本当のヒント」 「さあ……」 「あのね、あたしゴールデン街の酒場はいいんだけど、あのトイレが苦手なのよね」 「建てつけが悪いし、ドアの鍵はかかりにくいし、女の人は苦手でしょうね」 「だからね、あそこへ入ると、まずハンドバッグを口にくわえるのよね。で、片方の手でドアの鍵をしっかりおさえる。口にハンドバッグくわえて片手でドアの鍵をおさえてしゃがんでいるとね、破れた羽目板の隙間から星が見えたりするのよ」 「それが、犬が星見たのヒント」 「そうよ、ウフフ」  絵柄もここまでくると逆にリアリティをおびてくるから不思議だ。ちなみに、『犬が星見た』の「あとがき」には次のように記してある。 [#ここから1字下げ]  仕事部屋の掃除をしながら、ものめずらしげに本を覗いている私を、武田はおかしがったものである。 「やい、ポチ。わかるか。神妙な顔だなあ」と。  もしかしたら星など見えはしないのかもしれないが、そうとしか思えない恰好をしている犬を見かける。はやばやと人や車の往来がと絶えた大晦日の晩などによく見かける。とりかたづけられ、いつになく広々とした舗装道路のまんなかに、野良犬なのか、とき放された飼犬なのか、ビクターの犬そっくりに坐って、頭をかしげ、ふしぎそうに星空を見上げて動かない。  まことに、犬が星見た旅であった。楽しかった。糸が切れて漂うごとく遊び戯れながら旅をした。 [#ここで字下げ終わり]  この「あとがき」の詩的なイメージと、ゴールデン街のトイレの絵柄の幅の中に、百合子さんという存在が漂っている。いったいどこで止めたら正解なのかと思うこちらをあざ笑うかのように、焦点を合わせようとするレンズの先へ逃れてしまうのだ。ゴムひもを売る相手と見合いの関係も、それが事実かもしれないし、百合子さん一流の自己戯画化による増幅の産物であるかもしれないというわけだ。  小林やよいさんは、『かひがら』のバックナンバーとともに、話に出てきた同級生の金井さんから送って来たという、『婦人文芸』という同人誌を貸して下さった。これは平成五年九月三十日発行の号で、金井さんがその同人として発表した作品の中に、百合子さんが登場しているのだ。金井さんの「黄色い花」という小説の中に、「雪代」という登場人物があり、そのモデルが百合子さんだという。そしてそこに、「雪代」の詩が出ているのだ。 [#ここから1字下げ]  そのそらのやけてゆく  おそろしい うつくしさ  風は風を生むらしく  赤い雲は赤い雲を生むらしく  空はやける  この世の凡てのものに神秘を信ずる私  心しづかに念じつつ  あさやけの中にかみをとかす [#ここで字下げ終わり]  おそらく、十八、九歳の頃であろう。「雪代」は、「赤いくつ」(『かひがら』のことだろう)きっての詩人……というくだりがあった。この詩は、いろいろな意味で百合子さんらしい感性にみちている。鋭く、やさしく、まじめで、妖しい詩だ。このあとに「雪代」と作者らしい奈津子とのやりとりがあり、ここにも百合子さんのセンスがからみついている。 [#ここから1字下げ] 「雪ちゃんの詩良かったわよ」しきりにほめる奈津子に、雪代は考える目をして、真面目に言った。 「私はね、本当に良い人になりたいのよ。今のつまんない私なんかじゃなくて、わがままじゃなくて、もっともっとずっと、本当に良い人になりたいの。そのために詩や文章を書くんだわ。本当に良い人になれたら、そんなの書かなくても良いもんね」 [#ここで字下げ終わり]  また、奈津子が雪代の家の焼跡を訪れたときの思い出も綴られて、ここにもまた『富士日記』の武田百合子らしい感性があらわれている。 [#ここから1字下げ]  奈津子は横浜の大空襲の次の日、久美と訪れた「赤いくつ」の仲間の雪代の事を思い出した。町なかの雪代の家は、やはりすっかり灰になり、立札に避難先の住所があった。世田谷というと、兄夫婦の家だ。雪代の父は資産家だから、広い邸で上品な祖母とお手伝い二人にかしづかれて育ったが、兄と弟二人共皆母親が違い、雪代の母も物心つかないうちに亡くなり家庭が複雑なので、竹久夢二の絵に似た雪代は、いつも形の良い唇をへの字にまげ、怒ったようなとがめるような目で人を見た。人や物を見る目は確かで、秀れた詩や作文を「赤いくつ」にのせた。  奈津子は家のそばの原っぱで、雪代と時々おしゃべりをした。高台だから港の方まで見渡せて、広々とした青い空の下に町並みや海がひろがっていた。町を見下ろしながら雪代は口をとがらせて、 「ねえ。いかにも下界って感じがするじゃない。ゲカイよ。ゲカイ」  さも馬鹿にしたように言うので、奈津子は笑い出した。 [#ここで字下げ終わり]  ここにあらわれる「雪代」こと百合子さんは、もちろんこの作品の作者である金井亭子さんの目を通した姿であり、言葉にはちがいない。だが、武田泰淳氏の世界を離れて百合子さんを見ることの困難な私にとって、その洗礼を何も受けていない作者の描く百合子さんは、私の知る百合子さんと何ら違和感がないのだ。ここを強く意識するのは、百合子さんの天賦の才能が生れつきだとして、それを躯から押し出すきっかけとなったもの、事、人物、時代があったはずで、その何かを探ろうとする私の物腰のせいである。  では、百合子さんの肉声とは何か……そう思ったところで、これまではさまざまの資料からの想像を出ることは不可能だった。その想像が真実に近かろうが、とにかく想像は想像だったのだ。ところが、小林やよいさんにお借りした『かひがら』には、たしかに幼ない百合子さんの肉声が刻印されているはずだ。私は、机の上に積み上げた『かひがら』のバックナンバーを、しばらくは手をのばすことなくながめていた。  鈴木百合子が初登場した『かひがら』2号は、小林さんによれば昭和十七年の新年号として発刊したそうだから、百合子さんは女学校四年生、すなわち十六歳というわけだ。この号には、「父さん」というタイトルの散文が掲載されていた。(以下、引用はすべて原文ママ) [#ここから1字下げ] 「お父さんとこへ行つたけど、そりゃあ可哀さうよ。」と今帰つて来たばかりの祖母は、襟巻をとりながら言つた。 「ふうん」留守番で少しつまらなくなつた私は云つた。やつぱり留守番だつた大きい弟は、盛に釘を打つ音をさせて、犬小屋なんか修理してゐるらしかつた。 「おばさんが心配するといけないからッて傷をみせて癒り工合を見せてやるつて見せてくれたんだけど、そりゃあ百合ちやん「ふうん」なんていつたつてすごいのよ」。  ずーッと此所のとこからつて、祖母はみぞおちの所から切る真似をして見せた。水おちからおへその頭の上まで七寸ばかり切つたのだといふこと。 「それで、そのまはりがあかァくはれて……私ャ涙が出ちやつたわ。ほんとに可哀そうで」そんな話をされると私の胃の所まで痛くなる気がした。 「さうお? 本当?」一緒についていつた下の弟に聞いた。 「うん、うん、すごいよ。そいでネ、果物がうんとあつて、蜜柑うんと喰べちやつた」弟は蜜柑の篠の一杯はさまつた黄色くなつた手をひらひらふつてみせる。 「なあんだ、羨しくなんかないやい。」と心の中で思つて「そいで?」と祖母に聞いた。 「父さん、すつかりやつれちやつて、頭なんか真白でモシヤモシヤ。私が涙出したらお父さんも涙ぐんでたよ。気が弱くなるらしいね。あんまり可哀そうだから、ガーゼをそおツとあててちやんとしてあげて来た」と祖母が話しながら、もう目を紅くしてゐた。 「ゆり子今度いつてやるね。でも行つても話しがなくて大人しくしてるのやだもん、どうしようかなあ。」とそんな風に答へて私は考へこんだ。「ああああ行つておあげよ。」と祖母は云ひながら隣の室へ着物をきかへに行つたので、私はそのままこたつ[#「こたつ」に傍点]の室へ来て考へた。  二十八日が行つても良いから二十八日に行かうかなあ。行つたら何を話さうかしらん。それから何か本を貸してあげようかなあ等とあれこれと考へて本なんか探して俳句読本といふのを貸してあげようかと思つた。でも父さんは何時も「何とか経済」とか「東亜共栄圏」とかといふのを難しい顔で読んでゐるからこんな本むかないかもしれないと諦めた。案を立てては考へて、こはし、立ててはこはしてしまひに分らなくなつて、丁度物指があつたので、私のおへそからみぞおちまで計つて切る真似なんかしてみた。そしたらなんだか、ひどく嫌な気持がした。それからお父さんとこへ手紙でも書かうかと、便箋を出して、『よく勉強してます』とか『兄弟仲良くしてます』とか書いたけど、一番終りに『さようなら』と書いたら、いやに「さようなら」が可笑しい様で、悲しい様なので止めてしまつた。お父さんに『さようなら』なんて、生れて始めて書く言葉であり、言ふ言葉なので。  それからも色々考へたが、その揚句通知簿をもつて行つて見せよう、と思ひついた丈で寝てしまつた。  でもその次の日、素敵な素敵な私からの賜物が見つかつた。それで私、今嬉しくて嬉しくてたまらない。  大和町の花屋さんをのぞいたら窓に福寿草があつた。両方の親指と人さし指でこしらへた位の円い水色の鉢に黒いつやつやした砂を敷いて、若い苞につつまれて、福寿草が喜びに溢れさうに、黄金の花弁をのぞかせたのが二つ三つ植ゑてあるのだつた。何ともいへず心がふくらんだ。高雅で若々しく可愛らしかつた。私はふくいく[#「ふくいく」に傍点]つていふ言葉を感じた。  お正月を一人で病院に迎へる父さんにあのふくいく[#「ふくいく」に傍点]と春の喜びの福寿草を上げようと。……  現実的だけど私は定価を見た。一円つて書いてあつたけれど私は今兵隊さんの兄さんから送つて貰つたお小遣を持つてゐる。私にはとてもいい賜物がお父さんに出来る。 [#ここで字下げ終わり] 『かひがら』3号も、おそらく昭和十七年のうちに出されたと思うが、この号に鈴木百合子は詩と散文を一本ずつ発表している。     �山� [#ここから1字下げ]  山は朝になると雲が空へかへる。  目の前の峡から湯気みたいに切れたりのしたりして真綿をひきのばしたやうになつて  づーづーと上つて行く雲を見て空のどこかへ行つてかくれてゐるんだらうと思ふ  だつて何時も空は真ッ青なのです。  あんなに薄いのだから小ちやく小ちやく押しちぢめられて森のあたりにゐるのだと思ふけれど。  お日さまはおそい。山のてつぺんまでのぼるのは仲々だ。  御飯がたけると御飯は真白で一粒一粒まるまると光つてゐる。  山の日中《ひなか》はまむしが出る。草の中にかくれてゐる。  とかげがギラギラ散歩だ。岩がからからに乾いて所々狐のにほひがする。赤土が乾いて落ちる音。  大きなかぼちやの花が人の好さそうに黄色く咲いてゐる。  [#5字下げ]それでおしまひ  でも里の小川は冷くて子供が草と一しよに流れながら遊んでゐる。  山の夕方は又雲の奴めが帰つて谷で寝る。暗くなると、……………そう、————山の夜————山の夜は星が近くつてたれそうに輝く。里は山の瞳のやう。星の瞳つて云ふ子が昔雪国にはゐたとさ。  山の宿屋はランプを灯して一室づつ配ります。  ランプの灯は赤いやうでかがやかないけれど私はそこで弟達と頭をよせあつて三角とりをします。 [#ここで字下げ終わり]     「お父さん遊び」 [#ここから1字下げ]  縁側に陽がよくあたる。私達は今とつても良い遊びをしてゐる。「もしもしお父さん貴方はどこをみてるんですか?」弟がお父さんの羽織と丹前を重ねて衣もんかけに吊してあるのに声をかけた。父さんの羽織と丹前はいつも家にゐる時着てゐるので背中がまあるくあたたかそうな恰好につるされて裾がざらざらの縁に届きそうだ。何時もこんな風にお父さんは硝子戸を少しあけて庭を眺めてゐる。吊された着物も硝子戸にへばりついてお父さん見たい。そこで何時となしに弟とやりだした。「お父さんたら何時まで眺めてゐられるん? 霜はもう去りますしな。ところでお身体はいかがです?」私なんかお父さんの前で話せないやうな口つきでお父さんの友達ぶつて話し出した。調子にのつて肩に手をかけるとフラフラゆれて死人みたいで手ごたへがなかった。黒い羽織に所々御飯粒のあとやのりのあとが日にかちかちと白かつた。「やあやあところで鈴木さん、天下の形勢はどうですか?。」弟が御不浄の方から歩いてきて帽子をとるやうな風に頭へ手をやつて言つた。「新聞見なくちや分りませんな鈴木君。」「ラヂヲきけば分りますよ、ね。」弟が負けずに口をとんがらせて云ひ「やいやい鈴木君いやにへう然としてますな。アカネアカカブフタ円と五十銭はどうです」「アカネアカカブフタ円と……」といふのはラヂヲでよくやる株式の「アカネは何とかとフタ円なりアカネアカカブ……。」といふあの早口のぐうちやぐうちやのあれ。あれをお父さんはよくきいてゐる。所で「アカネアカカブ」と私に先に云はれたので弟は何を云はうかとあせつてる。「お父さんはいいお菓子を沢山たべていいな。僕も病気になりたいですよ。」とうとう日頃うらやましがつてゐる事をはなしかけた。私も着物をゆすぶつて「お父さんていふ身分はいいな。私かはつてあげてもいいですがどうですか? それともお菓子やりんごを分けてくれますか?」といい気になつておどかした。お父さんはへろへろとして少しゆれた。「これでもくれないか。やいやい手術した胃をつねるぞ。」と弟はバサツとした着物の胴のところを押まへた。私も「どうだどうだ」と弟と一しよにまつかになつてしぼつた。力を入れる度に硝子がガタゴトとなつて地震のやうだつた。何だか着物が今にも「いたいいたい」と云ひそうに思へた。弟が急にはなして「なあんだこれ着物ぢやないか。着物なんか駄目さ」と云つた。私も今まで着物だ着物だと思い乍ら本気にうんうんやつてゐたので、「なあんだ。そんなお父さん向ふへ行け。つまらない。」と急に興ざめてよした。握つてゐた胴の所のしわがジワジワ戻つていつた。おばあさんが火鉢で声をたてないで目ばかりでわらつてゐた。弟とこたつで「もし着物が話をしたらこわいね。」と話しながらしなびた甘いみかんの皮をむいた。夜お父さんと御飯をたべながらもひるまお父さんよりえらくなつておいたのですきやきのゆげの中で浩然としてしまつた。  何時か何時かあれはお父さんのしよつちゆうきてゐる着物だからおどかしたのがお父さんにつたはつてクリームのお菓子やらお父さんのたべるおいしい薬やらをくれそうな気がする。何時か、ね。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]〈完〉 『かひがら』4号には、鈴木百合子は詩を一本発表している。     『沈丁花』 [#ここから1字下げ]  沈丁花、沈丁花  風が吹いてて  校門でると  にほひがながれる �なつかしいね�  誰か云つたよ。 [#ここで字下げ終わり]  昭和十八年五月号『かひがら』に、鈴木百合子は詩を六本も発表している。「昭和十七、八年というと、メンバーの中の幾人かは受験勉強の憂鬱な時期に入っていて、私も金井さんも伊藤アグリさんも受験に失敗し、挫折感で『かひがら』に投稿するのももの憂くなり、ひとり百合さんだけはのびのびと詩を書いていたという感じがします」、お目にかかってしばらくのち、小林やよいさんから届いた手紙にはそう書いてあった。その手紙の中に、号数不明の昭和十八年五月号に載った詩は、百合子さんが原紙を切った自筆だということも記されていた。五十年以上も前の�鈴木百合子�さんの自筆が見つかったことを、小林さんは感動をにじませて綴っている。     『成長』 [#ここから1字下げ]  弟たち  あんた方は一日々々大きくなる  体つきもしつかりして来たし  瞳もきつかりと輝いてきたし  毎日々々  風が  土が  空が  あんた方を育てる  ああ  早く大きくおなり  なつて頂だい  大自然の植物のやうな  ほら  母さんが天から見てゐる [#ここで字下げ終わり]     『ちがさき』 [#ここから1字下げ]  あの道をいつたりきたり  海には誰もゐなかつた  どこかひそかに  秋が忍びこんでゐたんだね  指のあひから見るおひさまは  海にまつかにやけてゐた  世界にひとつも音がなく  だれもしやべつちやゐなかつたが  ううん  まだなの  ううん  まだなの  だれか呼んでゐた  ああ かなしみが  天にも地にも  あふれおちさうだつた日  松ばらは黒々ととほかつたね。 [#ここで字下げ終わり]     『おと』 [#ここから1字下げ]  ひるま  野ぎくの咲いてゐたあたりで  水のおとがしてゐる——  眠りそこねた蝶のはゞたき  星たちがみんな空からぬけ出さうと相談してゐた。  ひるま  のぎくの咲いてゐたあたりに  水のおとがしてゐる——  ああ、みんな  じつときゝいり乍ら  しやくりあげるのをやめてしまつた [#ここで字下げ終わり]     『うみ』 [#ここから1字下げ]  海が不器用になげいてゐた  あの日たちよ  あの日たちをかへせ  海が  たつたひとつの星の下で  大きな図体にかなしみを  あふれさせていた  遠く空にかへつていつた日を  海は不器用になげいてゐた  たつたひとつのほしのよる [#ここで字下げ終わり]     『夜』 [#ここから1字下げ]  どこかの醸造やの酒ぐらで  酒が凍ることがあると  だれかがいつた。  美しい酒が凍るのは  きつとこんな夜かもしれない  山はねてしまつた  もし ひとつの星が杉の森に  深くおちたとしても  だれも目をさますものはあるまい  風だつて今夜は岩かげに眠るらしかつた  動くものは宿のランプの灯のかげ。  今こそ  峡のすい晶はきびしい音をたてて  結晶をはじめるかもしれぬ  すゝむちやん  今夜あたりは  星の熟柿が自分のおもみに  たへかねて  川におちこむかもしれない  生れて始めてのやうな  しづかさだね [#ここで字下げ終わり]     『天』 [#ここから1字下げ]  かけるときに  かかねばならぬ  かみさまよ [#ここで字下げ終わり] [#地付き]�をはり�  百合子さんの詩を読むうち、「未来の淫女」に出てくる、便所の裏手を必死で探している「光子」の姿が浮かんできた。「光子」は、誰にも預けたことのない買物篭を探しているのであり、その中には中原中也の詩集と、その詩集に載っていない作品を鉛筆で写し取ったノート、そしてカソリックの「公教要理」が入っていたはずだ。「光子」にとって失ってはならぬそれらの具体的な宝物は、彼女が大切に抱いている自分の原点であったかもしれない。そう思えるほど、『かひがら』に発表された詩は、『富士日記』の百合子さんそのものだった。  これは、当り前のことなのかもしれない。しかし、私はその当り前に具体的に出会ったことのショックを受けざるを得ないのだ。  私は、武田泰淳氏の死後、百合子さんの中に�ランボオ�時代の貌がよみがえったなどという矢印を考えたりしていたが、�ランボオ�の時代にはあきらかに「未来の淫女」に描かれた時間が貼りついているのであり、それ抜きによみがえるということはあり得ないだろう。『富士日記』によってよみがえったのは、実はそれよりもっと以前の百合子さん、つまり『かひがら』に詩を発表していた頃の百合子さんの貌だったのではないか。  小林やよいさんが語る女学校当時のありかたは、私が知っている百合子さんと、それほど誤差のない姿だ。横浜の大家の令嬢が、家庭の複雑な事情もあって、『かひがら』に載った詩にあるような、独特の感受性を貯えた。それが何かのきっかけで躯の外へ押し出された。『かひがら』がそのきっかけと取ってもよいし、それ以前の時間の中にそのきっかけがあったとしてもよい。とにかく、百合子さんの躯に貯えられた詩人の魂が、あるときから外に向って表現されるようになったのである。  私は、『富士日記』『遊覧日記』『犬が星見た』『日日雑記』その他の百合子さんの文章にただよう、不思議な緊張感の素《もと》は何だろうと思っていた。才能が噴水のごとく吹き出している、そういう全体から受ける印象の中に、不思議な緊張がある。それが百合子さんの文章の特徴だった。  百合子さんは、自分の文章を人一倍の執着心で推敲するタイプだ。たとえどんな短い文章においても例外ではなく、このことを私は担当者としてよく知っている。それこそ、私は武田泰淳氏との時間の中で身についた習慣だと思っていた。それにしても、「が」か「は」かについてあれほどの時間をかけて、じっと目を宙に浮かせている百合子さんは、針の穴ほどの空間の中での色の差を見きわめようとする、まことに鋭い表情をしていたものだった。しかし、それをいわゆる文章修業の為せるワザ、あるいは素人の自分がうっかり世間に通らない言い回しをしてしまうことを避けるための、ごくふつうの気の遣いようだと思っていたのは、あきらかに私の早とちりであった。このことに、『かひがら』の詩を読んで遅ればせに気づいた。  百合子さんは詩人の魂で散文を書いていた……その発見は、私にとって目から鱗が落ちるほどの衝撃だった。『富士日記』その他の百合子さんの文章は、詩人の魂が書いた散文だったのだ。百合子さんのあの執拗な自分の文章へのチェックは、五行の詩における助詞の使い分けをあれこれと考える、詩人の目によるチェックだったにちがいない。  そのことが、百合子さんの文章にただよう独特の緊張感の正体だったのだろう。武田泰淳氏の死後、百合子さんの躯の底に沈んでいた詩人の魂が、堰を切ったように噴出したのはあきらかだ。  そして、生前の武田泰淳氏がつねに百合子さんから浴びていた放射能、受けつづけた刺激の正体も、おそらくは詩人の魂だったはずだ。あらゆる場所への旅の同行者として、いやそれよりも人生の道連れとして、武田泰淳氏が手放すことのできなかった百合子さんの感性の芯は、そこにあった。武田泰淳氏の野間賞受賞作品『目まいのする散歩』が百合子さんの口述筆記によることは知られている。  百合子さんの刺激は、武田泰淳氏にとってもちろん文学上の問題だけでなく、人生の全般において受けつづけたシャワーであったろう。だが、とりわけ武田泰淳氏の作家としての資質に変化を生じさせた刺激があったとするならば、それはやはり百合子さんのもっていた詩人の魂だろうと思う。口述筆記を自分以外の者にゆだねる……この一事を突っ込んで考えてゆくと、武田泰淳氏ほどに冷徹な文学者がその相手を得たことは奇跡に近いという気がする。そして、武田泰淳氏が作品をゆだねる相手として百合子さんの中に見ていたのも、詩人の魂だったにちがいない。  稀有なる知識人であり文学者である武田泰淳氏と、天賦の才をもった詩人の魂を内に秘めた百合子さんが、まさに火花を散らし放電し合っているというのが、二人の出会いからずっと持続された構図だろう。雷の夜にものすごい夫婦の言い争いがあって、翌日はケロリとしていたという花さんの話が思い出される。その夜、百合子さんが「あなた、頭が割れてますよ」と寝言を言ってしまったのは、内包していた詩人の魂が、ついほとばしってしまったせいと考えれば腑に落ちるのだ。  小林やよいさんにうかがった話の中に、百合子さんが複雑な家庭環境のなかで、屈折した気持を抱いていたという意味合いの言葉があったが、『かひがら』の中の「お父さん遊び」を読むと、そんなことを想像させるものがある。父親に対する独特の距離の取り方が、ここにはあらわれているのだ。弟と共有する奇妙な遊びの中から、それは十分に汲み取ることができる。しかし、そういう屈折の中に遊びながら、百合子さんが遠い何かをつかもうとしていたという手応えが、文章からひしひしと伝わってくるのだ。「ふくいく」という言葉に気持をかさねるセンス、自然に語りかける心情、「天」という詩に出てくる「かみさまよ」という呼びかけは、当時の百合子さんの切々たる思いが痛々しく表現されている。「夜」は十七歳の少女とは思えぬしたたかな詩だが、そこにいきなり出てくる「すゝむちゃん」という一行が、やはり謎めいている。「すゝむちゃん」は鈴木修氏の三つ上の兄の名だ。  百合子さんにとって、悠久の自然の摂理のごとくすっきりとしない問題として、やはり�家�というものがあったという気がする。しかし、それはいわゆる�鈴弁事件�とつながる意味合いのこだわりではなかったのではないか。百合子さんにはどこかに存在するはずの理想の家族をさがす気持があり、現実の家庭はそれにはどうしても合致しない。しかし、そのズレを何が起しているかという追求の向うに、具体的な人物の輪郭が見えてくると、百合子さんはわざとフォーカスをぼかし、遠い彼方をみつめてひとりごとを呟やく……そういう感じだ。  そんな百合子さんの心のありように、横浜の家を焼け出されたところから、新しい色が加わらざるを得なかった。小林やよいさんにうかがった今でいう�豪邸�にいた百合子さんが、ゴムひもや口紅の行商をやって歩くというのだから、事態は急旋回したわけである。  しかし、百合子さんは�豪邸�から家出をしたわけではない。誰もが貧しく、不自由になった終戦をはさんだ時期に横浜の家を焼け出され、上の兄の家に弟(修氏)とともに身を寄せたのだから、生活の落差についてはいささかの微調整が必要だろう。  行商とY氏との時間は当然からんでくるが、Y氏に惹かれた百合子さんの心根は、『かひがら』に詩を発表した百合子さんの心根とは矛盾していない。もちろん、それまでの百合子さんの生活で出会わなかった人と街が織り成す風景に、女性としてたじろぐこともあったにちがいない。しかし、「どこかの醸造やの酒ぐらで 酒が凍ることがあると だれかがいつた 美しい酒が凍るのは きつとこんな夜かもしれない」という詩を書いていた百合子さんにとって、それは嫌悪すべき風景ではなかったのではないか。  行商の前にやっていた筆耕のアルバイトも、『かひがら』的感覚の延長線上にとらえられる、百合子さんらしい選び方だ。しかし、何らかの事情でそれをやめたあと、百合子さんは兄の家を出て、戦後の街の風景の中へ紛れ込んでゆく。そこにY氏がどのように関わり、ふたりの意識がどのような軌跡を描いたか、そこのところだけは、百合子さんに取材する術がない以上、探りようがない。ここだけにポッカリと穴があいている。そしてそのあと百合子さんは突然のように喫茶店�ランボオ�の人気者として、戦後の舞台に登場したのであり、そこから先はすでに見てきた。つまり二人のあいだに何者も入り込めない、武田泰淳氏と百合子さんの時間がつづいたというわけだ……そう思いかけて、私はふと首をかしげた——。 [#改ページ]   第六章 秘密の色  小林やよいさんの話では、百合子さんとは昭和二十八年に再会したということだった。同じ『かひがら』の同人である金井さんも、花さんを連れてたずねて来た百合子さんの派手な姿の記憶をもっているというが、二人とも百合子さんの方からたずねている……この事実に、私は妙に引っかかるものを感じた。  終戦の年が十九歳だというから、小林さんも百合子さんも、昭和二十八年にはすでに二十七歳くらいだ。百合子さんは、すでに武田泰淳夫人となっていて、花さんをおんぶしていた……これが、小林さんの証言だ。百合子さんが、小林さんだけでなく金井さんをもたずねているのが問題だ。百合子さんにとって共に『かひがら』の同人であった二人は、戦後の�ランボオ�時代あるいは「未来の淫女」の時代を経て武田泰淳氏と結ばれ、花さんという娘が生れるほどの時間が過ぎても、いつかたずねるべき忘れがたい人たちだったということを、この事実は語っているのではないだろうか。 『かひがら』に関わった時間が、そのときふとなつかしさをもって浮上したのだろうか。いや、私はそうは思わない。むしろ、その時間は終戦をはさんだ時の経過の中でも、百合子さんの躯の中に脈々と生きつづけていたというのが、私なりの見定めだ。詩人の魂は、戦後のすさまじい風景のひとつと成り果てた百合子さんの中でも、稀有なる知識人であり文学者であった武田泰淳夫人となりようやくゆとりを取りもどした時間の中でも、あの買物篭の中の宝物のように、そっと秘かに息づいていたというわけである。  私は、目の前に置いてある『かひがら』のバックナンバーのうち、戦後に発行された号の一冊をつまみ上げた。あの戦後の風景の中で修羅場を共に生きぬいた武田泰淳氏との生活の中に、夫の知らぬ時間があった……いまそれを検証しようとしている自分の手が、かすかにふるえるのを私は感じた。 『かひがら』第四号、昭和三十四年二月二十八日発行とあり、編集責任者・小林やよいとなっている。これ以前の号にも百合子さんの文章が掲載されていたのかもしれないが、完璧なバックナンバーが揃っていないので、そこはいまからは探れない。何しろ、小林やよいさんの連絡で『かひがら』のバックナンバーを揃えて下さった金井さんのところに、戦前からここまでの何冊かが残っていたのだけでも奇跡といっていいのだ。「金井さんが富山に疎開するのに、リュックに背負って持ち歩き、途中、スフ製のリュックが破れて線路上に散乱、そのとき何冊か失くしてしまったということで……」という小林やよいさんの手紙が、そのことを表わしていた。  第四号の「風のたより」欄に、百合子さんの文章が載っている。 [#ここから1字下げ]  先日うち武田が五・六日旅行したのでその間に一度横浜へいこうと思っていながら、留守の間にたまっていた仕事を一つ一つ片づけているうちに行かれなくなりました。花子が学校へ行っていると、朝は早いし、お弁当のおかずとか宿題とか手袋とか折紙とか用意するものが多くて何となく出かけられません。  毎朝霜柱のたつ畠の中の道を花子は学校へ行きます。算数のはやざんはあるし、忘れものをすれば先生に御注意をうけるし、子供というものは大人の考えているよりずっとずっとなやみも苦労もあるわけだな、子供というものは可哀想な生きものだな、などと思います。 [#ここで字下げ終わり]  これを読むと、二十八年に再会して以来、百合子さんが何度か小林さんと会っていて、武田泰淳氏に支障のない折などにちょくちょく横浜へ出かけて行ったらしいことが推測される。しかし、それ以前に『かひがら』に作品を発表していたか否かは、バックナンバーが欠落しているので分りようがない。  ちなみに昭和三十四年といえば、武田泰淳氏は「貴族の階段」を『中央公論』の一月号から五月号まで連載、この年の六月に刊行している。他に、『女の宿』『地下室の女神』が刊行され、講談社の『現代長篇小説全集39』で『武田泰淳・椎名麟三』という巻が刊行された。  翌昭和三十五年十月二十三日発行の『かひがら』に、百合子さんの�空想旅行�と銘打った「アルベルベロの町」という文章が掲載されている。これもまた小林さん宛の書簡といった内容で、しかし随所に百合子さんらしい感性と発想が吹き出しているという文章だ。     「アルベルベロの町」 [#ここから1字下げ]  お元気ですか  今日旅行記をパラパラとみていましたら南イタリーのアルベルベロという町の写真と話が出ていました。その旅行者はイタリーの南を旅していてひょっと迷いこんだのだそうです。現実の町とは思えないしいんとした不思議な町で、どの家もアリ塚の様に石をつみ上げ屋根の他は漆喰で真白にぬられ、黒い石の屋根の先に符号のような白い文字がかかれている。家族がふえるとその数だけアリ塚が増築され、大工さんは黙っていてもそのアリ塚をつくるのだそうです。皆同じで役所も教会も郵便局もそのアリ塚です。人々は毎朝掃除をするように高ぼうきで新しい漆喰をぬりつけていつもまぶしいばかり。人は申合わせたように黒衣をまとい、局外者はスクーターを音高く石だたみにのりつけて郵便物を運んでくる郵便屋さんだけ。と、こんなことが書いてありました。  毎日迅速でエネルギッシュな、お化けの様な東京に住んでその町に愛着をもって生活しているけれど、ひょっとこんな話をよむと地球のどこかに、こんな童話の世界の様な町があって怠惰に一生を過している住民がある、なんて思ってゆっくりした気持になります。  南ヨーロッパの空はすごく青いそうだから、その下にこの町があって、しいんとした昼下り、ヒゲの生えた郵便屋さんがスクーターでのりつける、なんてコクトーの映画に出てきそうです。  ここのところ家の雑事におわれて、長野から東京へ帰ってきて以来ずっと忙しくしていました。そわそわと、税ム所へ行ったり区役所へ行ったりでおちつかず何とはなしにくたびれていたのです。私はどうもなまけもので、いつも前面に向かった姿勢でエネルギッシュでいることができないのね。  皆川さんはいつも精力的で感心してしまうわ。皆川さんの書いたものでも、あの人自身の話をきいていても私はあれよあれよと圧倒されてしまうもの。そのくせ私はこの頃人の悪口、罵詈雑言、うまくなって何でもかでもさいごは悪口をいってみたくなる——ババアになったのね。  東京は、今日はめづらしいほどの空の青さで、アルベルベロの町の話を読んだものだから、ゆったりした気分になれて、ひょっとお便りしました。  ではまたお目にかかりましょう。 [#ここで字下げ終わり]  昭和三十五年十一月二十五日発行『かひがら』5号にも、やはり書簡形式の文章が載っている。この年、武田泰淳氏は『新潮』の一月号より「快楽」の連載をはじめている。     長野県から [#ここから1字下げ]  やよい様  御手紙ありがとう。夏の盛りに貴女から手紙を頂いたので間門の海に行く道や、麦田のトンネルのあたりなど、十何年も前の夏を想い出します。夏休みを過している、という感じです。私は毎年の様に長野にきています。七月の二十三日から八月二十四、五日頃までここにいます。主人は太っているので暑いのと、仕事もうまくはかどらないし、東京にいると何かと来客や雑用に一日一日をつぶされてかえって不経済なので——という様なわけです。  私の子供であるのに花子は夏に弱くて、ランドセルを背負って一学期の終り頃などはフウフウいって、汗もを顔に一杯つくるし、夏は、私だけ丈夫なのです。私はどこにいても、どこの夏でも、たのしんでしまいます。東京の油照りのひる日中に、せっせとおつかいに行って帰ってきて水を浴びる——夕方に、西瓜を三人前位たべて、動けなくなるほど満腹して景色など眺めている——冷風装置(冷房ではないの)の映画小屋に三本立五十円の映画を見にいったり、そんな東京の夏も好きですし、今過している山の夏も大好きです。皆が都会で暑さにまいって働いている時に、ここにいて青々とした山の中で過すなんてぜいたくな話です。だからぜいたくなものを毎日々々嬉々として楽しまないと、神様にすまないようです。私のいる山の中は、まわりは農家が殆どで、林檎畑とホップ畑と野菜の畑の外は、杉、檜などの山村です。  農家はお蚕を飼っていて、雨の日など二階の蚕部屋からは、蚕のむうんとした臭がしてきます。もう、白いまゆを作って出す頃です。十三日からここの家の前の広場で村の盆踊がはじまります。花子が毎年それが楽しみで村の人達と一緒に踊ります、十時頃まで踊ると一つかみずつ、農家の小母さんがお菓子をくれます、お盆が済むと、淋しくなります、夏も終りに近づきます。  暑い日には下の河原に行きます、星川という川で、河原には人が三人位、甲羅ぼしができる岩や石がごろごろしています、そのそばに草がたくさん茂っていて色々の虫がいます。この頃は螢はいなくて虫の声が聞えはじめました。その石の上に坐って、キャラメルを一度に三コずつ口の中にほうりこんではじいっとして、いろいろな夏のことなどを思い出してみます。  幼い頃の夏や、女学校の頃の夏や、子供がいなかった頃の夏など、夏を軸にして、一年がくるっと廻っていくかのようです。  横浜の海も埋立られるとかで、私達の過した夏の横浜もずい分変ってゆきますね。戦争の間の事など、話をしても通じないし、興味ももたない、西洋映画の中の事の様に思っている若い人が、夏の盛りを思う存分楽しんでいるわけなんですもの。そうして、そういう若い人、男の子も女も女の子もびっくりする位、きれいで生き生きとしている人が多くて、そうでない暗い、淋しい様な感じの若い人は、くしゃくしゃしていて、面倒臭くて、愛してやるわけにはいかないみたいです、この頃の若い人のことをあんまりかげがなさすぎる、軽薄だ、内容に乏しい、そんなことをいう人があるけれど、かげがない、明るすぎるくらい明るい、深みがない、みんなすばらしいと思うわ、深みというのは人によって解釈のしかたが違うもの、若いというのは、夏みたいにすぐ終って、どんな人にでも生活をして生きてゆかなくてはならない人間の宿命があって、おじいさんやおばあさんになるまでに、にごりやさびや、垢やかびや、がくっついてくるんですもの。五十の愚連隊なんて、みたことないものね。  どうしてこんなこと書きはじめたのかな、この山からもっとずっと先に、志賀高原があって、土、日曜日となると若い人達が、東京や関西から、どっとやって来るのです、その人達は、一時でもじっとしていません、バスの中でも折畳式麻雀台をもってきてかけ麻雀をやるし、キャンプのテントの中でもしています、歌も謡うし、ダンスもするし、かけ合い漫才の様に話をやりとりして、お互に、楽しみ、楽しませ合うのが上手です。  私はこの山の中でスクーターに乗っています、先日もの凄いスピードを出して上って来たら曲り角でもんどり打って、スクーターは横倒し、私はほうり出されて、手足に打撲傷とかすり傷で、十日も経つのにあざが消えません、それでもこりずに練習していますが、その後畑の中に落ちて、車体をひきあげようと思ったら重くてよろけて却ってスクーターの下敷になったりしました。それでもまだこりません、今日も午後から練習です、時々、「一体何の為に、痛い目にあい乍らスクーターに乗りたがるのかしら、実際無駄なことだ。」と、自らを省みるのですが、それでも、スクーターを見ると、乗りたくなります。  花子は毎日とんぼを沢山とって(アパートではとんぼが一匹いても子供が殺到してとり合いですから、スローモーションの花子には一匹だってとれません。)それを箱に入れて、一日おくと死ぬ——それを土の中に埋めて、お墓をつくっておまいりします。お墓をつくって、ねんごろにやさしい心を出すために、毎日々々ゴマンととんぼをとっては殺して、埋めるわけです。  この間なんか一日どこかに行ってしまって夕方探したらここの家の二年生の男の子と二人で狭い部屋にとじこもって、とんぼを料理していました。尾を切ったり、頭をとったりして箱の中にいれて、棒でかきまわしたりして、死ぬとお墓で、半死半生のは病院を造って入院させて、布切などフトンにしてかけてやったりしていました。私はなぜか感心してしまって(あそび方が子供がうまいからかしら)説得してやめさせる事ができないので、部屋へもどって来てしまったの。「かわいそうじゃない」と一言いったのだけれど、私のその一言など、子供達の生き生きした遊び方の前には、色あせた、しなびた、弱いものです。心理学や宗教学や、そういうものを沢山勉強していたら、こういう遊びに適切な注意のし方もできる母親であったでしょうに。私も何となく(面白いことしているなあ)と思ってしまいました。貴女は塾の子供に、とんぼを殺したりしてはいけないというようなことを、どんな風に教えるの?  秋になって横浜に行ったら元町の通りを歩いてみたいわね。うんとショウウインドウをのぞいたり、中に入って見たりして、何も買わないで、ジャーマンベーカリーに入って何かたべたいわね。私はこの四月頃だったか、子供をつれて行って暗くなるまで歩いていたわ、外人の中古品のセーターを、二百円で二枚買って来たわ。  九月か十月頃でも皆で集まれるといいわね。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]完  最後に「完」となっているところから遡ると、これはたしかに書簡体の�作品�になっている。いったいどんな過去をもった主婦が、こんな手紙を友だちに書くのだろう……そのアングルがフィクションの額縁だ。子供たちのとんぼ遊びのくだり、「貴女は塾の子供に、とんぼを殺したりしてはいけないというようなことを、どんな風に教えるの?」と突きつける言葉を吐いたあと、急に横浜は元町のジャーマンベーカリーにつながるあたり、すごいセリフの展開である。  また、幼ない頃の夏、女学校の頃の夏につづいて、子供がいなかった頃の夏というあいまいな言い方が出てくる。百合子さんが過した夏のうちで、もっとも濃い夏の色を消しているのかもしれないと思った。そして近ごろの若者についてしばらく書いたあと、どうしてこんなこと書きはじめたのかな……と我に返り、何となく志賀高原にやって来る若者とつなげている。想念が横ばいし、キリモミ状にある一点へと向ってゆくのを、どこかでセーブする自動防禦装置が、そこで働いたのかもしれないというふうだ。  昭和三十六年の六月六日発行号は、百合子さんの「花だより」という文章を載せている。散文というよりも小林さん宛の手紙のようなかたちをとっているが、それが面白いので掲載したのだろう。巻末の住所録には、すでに赤坂コーポラスの住所が記されている。 [#ここから1字下げ]  お正月には年賀状ありがとう。引越してからもうぢき半年になってしまいます。御無沙汰しているうちに桜が咲く頃となりました。  毎年桜が咲く頃になると、久方のひかりのどけき春の日にしづこころなく花の散るらん、という歌を何度か思い出し、そのたびに犬や猫がノビをするように、思いきりノビをしてごろりと横になってみます。着ているものも一枚々々とはぐように身軽になり、靴下カバーもぬいで足も軽く、晩ごはんのあとで出かける買出しも、夜風にふかれていつまで歩いていてもよい気持です。陽のまわる高さが変ってきて、夕方の支度の台所にガラス越に陽がさして、ガラスの食器や野菜やタオルがオレンヂ色めいて、サラダをつくったりしていると、(あれ、いつだったかこんな陽射しやこんな手つきや、こんな台所やこんな考え、いつだったかそっくりあったじゃないか、そっくりそのまま、ずっと前にあったじゃないか……)なんて、なることがあります。そうして久方の光のどけき春の日にしづ心なく花のちるらん、という歌は昔の人はいざ知らず、私にはこういったものだな、と思うのです。  今日は、中国からのお客様があって、この方は謝さんという、真黒い支那服を着た小さなお婆様で、もう一人は李さんというプロレスのように元気の良い若い男の人でした。私は支那語はまるきり分らないし、通訳の人を通じて話すのだけれども、謝さんというお婆様は色の白い眼のきれいにすんだ小さい方で、羽毛の様にやわらかい声の支那語で冗談を言ったり、びっくりしてみせたりします。京都に行ったらとてもよかった、タタミも好きだ、景色も大へんいい。桜がさいていますね。日本のお菓子はとても美しくて食べるのが惜しいようだ。という風に日本のことをほめてくれます。もちろん中国人は昔から外国とのつきあいが多かったから、上手な社交辞令もあるのでせうが、春の午後をそんなお客様と過していたら、日本はいいんだなあ、やっぱりいいんだなあと思いました。そうしてまたまた久方の光のどけきの歌は、昔の人はいざ知らず、今日みたいな春の午後の私の気持、こういったものだなと思いました。  謝さんの靴は、真黒い小さなあみ上げ靴で、黒い旧式なハンドバッグをさげ、絹の黒い支那服の襟元のまん中にまるい青っぽいブローチを一つかざってあります。あんまり小さな体、あんまり美しい支那語、優雅なものごしだから、さわってみたい珍しもの好きの私の本性が頭をもたげました。帰るときにとうとう腕にさわってみたら、絹の服にはきっと真綿のようなものがうすく入っているのでせう、ふわっとしていて腕を感じません——私は、あんなお婆さんになってみたいなあ、でも私は大食で、それも何でも食べてしまう大食で、ガタピシャした気持をもっているし、多分なれないでせう。それでも、あんな風に年とってみたい、と思う人にあうと気分がいいわね。  夕方、千鳥ケ淵という、宮城のおほりばたの桜を見にゆきました。私のところは、散歩は宮城が一番近いの。宮城のところは妙に静かで人も少ないし、散歩には一番いいわ。桜が四分咲きで夕方はおでんやだの金魚つりだの、いなりずし屋の屋台が小屋がけの支度中です。ゆで卵の匂いや、おでんの湯気が少しづつ、たちこめています。昨日は強風で人出がなかったから、今夜こそといった必死のかまえで、おでんやのおばさんやおじいさんが支度中です。夜桜の下でおでんを食べ乍ら一杯のみ乍らベンチに腰かけてアーリガタヤアリガタヤなんて歌ったって隣りは宮城だし、大声出しても叱られないし、絶好のお花見場所なのね。私も又明晩あたり晩ごはんすませてから、ガンモドキでもたべにきてみるかな、と思いました。  それにしても桜って何て静かに咲いているものなんでせうね。鏡のように、光っているみたいね。あんまり見事に咲くから、桜の木の下には人の死体が埋っているという幻想が起きるのね。凶っていうこやしがあるのね。桜っていいわ。花の中では桜の花が咲いているのを下で見ているのが一番好きだわ。年をとる毎に好きになって毎年、今頃〇〇沿線ダヨリとか、新宿のどこそこの桜は三分、どこは五分、なんて出ているのを読んでは、大きな大きな桜の木の下に行ってバカみたいに咲いているのをながめたいな、なんて思います。今にだんだんお花見に浮かれ出して、団体でのめや唄えやのお婆さんになってくるかもしれないわ。毎年、それが楽しみだなんてね、こんなのを愛国心というのぢゃないかしら。  私この頃、東京の自動車洪水も、夜のネオンサインの洪水も、衣服の流行ぶりも、めちゃくちゃの雑草の様なエネルギー、それから桜の花どきの大さわぎも、皆好きだなあ、と思います。宮城のおほりの白鳥や水鳥も。それを横になり、たてになりして夢中でうつしている定休日の若い工員さんや店員さんも。楠公の銅像の前でおじぎをしているおじいさんや、バスガールの説明を感心してきいている田舎の団体の人たち、田舎の人だって東京の人だってみな同じ顔をしていてかわらないわ。四十近くまで日本で生きていて、今頃になってはじめて日本が好きだなんていうのはおかしいかもしれないけれど。  何月頃かしら、集まりは。今度東京でして下さるなら、新宿なら知ったところがあります。  他愛もないことを書き連ねましたけど、お花見どきの浮かれ気分のようなもの。お花見どきはトラホームやものもらいがはやるけど、トラホームみたいにごしゃごしゃした花便り。では又ね。 [#ここで字下げ終わり]  こんな手紙をもらったら、たしかに自分ひとりで読んでしまっておくのが、ちょっともったいないという気分が生ずるだろう。ここには、『富士日記』のある部分と同じように、�わたしは機嫌がいいですよお!�と叫んでいるような感覚があふれている。四十近くなって……とは言いすぎで、百合子さんは三十半ばを越えたあたりの年齢だ。それにしても、ようやく日本が好きになったという言葉には、曲折、屈折のあげくのやっとゆとりをもったという境地が感じられる。  この年十一月十五日発行『かひがら』九号には、「忘れた夏の手紙」という文章が載っていてやはり書簡体、これには小林やよいさんらしい註がついていた。 [#ここから1字下げ] 註 夏の手紙とはいうものの、これは去年(三十五年)もらった手紙である。今更のせるなんていかにも間がぬけている。  そのうえ、今年会った百合子さんは、�私って何でもすぐ忘れちゃうたちなのね。去年感動した村のお地蔵様の前を通っても今年はまるきりけろっとして何も感じないのよ。�とすましていた。人の悪口など書き散らした手紙をのせるのは気が進まないと、言い言いしているのを無理にお願いして載せさせていただいたのがこの手紙です。 [#ここで字下げ終わり]     「忘れた夏の手紙」   長野・湯田中発 [#ここから1字下げ]  この夏は、字をかくのが面倒くさい感じで、すっかり御無沙汰してしまいました。廻送されて貴女のお手紙、先日頂きました。  秋だの冬だの、春だの、過ぎて、あっと思うほど濶達な大夏が、目の前にひろがって、呆然として、とうもろこしや枝豆をむさぼりくらい、流行歌など歌っているうちに、はや、夏も終り。  あらかたの湯治客や避暑客もかえり、宿屋もひっそりしてきました。今日など宿屋の前の往来は、白く乾いてただ陽が照るばかり。人も犬も歩いていません。農家ではよそからの人間が村からかえっていってしまったので、安心したように、縁側でじいさんばあさんが子守しながら、豆や菜葉を干してゆっくりと話をしています。私も今月末には東京へ戻ります。  やっぱり夏はいいと思うわ。本も読まず、字もかかず、手当り次第、のみ、たべ、ぼんやりとしていても、夏だから、夏だから、小さな人間の怠惰位は神様もおゆるしになるでせう。  よく新聞の家庭欄にあるでせう、今週の主婦のスケジュールとかいって、奥様、夏の間におふとんの手入をいたしませうとか、奥様、朝の涼しいうちに子供と一緒に英会話のおけいこは如何ですか、とか、そろそろ夏も半ばとなりました、新学期に備えて子供の服のプラン、背たけののびにあわせて、上げを下してはどうでしょ、云々、私はあれが目にとまると、へえええええええ、と感心とともにうんざりしてくるの。  もっとも私のところは子供が一人だし、手がかからないから、三人も四人もある人とは全くちがうから、だけれど、夏もせっせとスケジュールでやらなくちゃならないなんて、何のためにいやな学校に通って、やっと卒業して大人になったのか、分んないや。といった気分です。  今年、ここにきてしたものといえば何かな? 写真を少しとりました。こっちにくる前に、オリンパスペンという安い写真機(これは安いけどすごくよくとれるのですすめられて買ったの)を買ったので、花子だの、石ころだの、とりました。一枚、うまくとれたのを送るわね。  こゝの部落は、田舎はどこでもそうだけれど、お地蔵様が多くて、村の一番上の地蔵庵(六十位の尼さんが一人いるのだけれど、尼さんというとすごく風雅に思うでせうが、この尼さん、私がこの村で一つだけ嫌いなもの、その一つなの。眼付が陰険でおしゃれで、少しものんびりしたところのない、この村で一番素朴でない人です。自分の僧位が昇ったこととか、何とか試験にパスしたとか、お茶は何流で、この茶道具は京の何とかいう、高価なものだとか、生れは東京で金持で、今でも生家では自分のことを案じているとか、しゃべるとうるさい限りの人なの。毎年同じことをしゃべっているのでね。)のほとりに二人。川原に出る近道の急な下り坂の途中に二人。隣村へゆく往来の、田のそばに二人。皆大昔に坐らせたもので、風や雨で顔がみえなくなったのや、首がとれたりした代りに顔の大きさ位の丸い石がのっていたり、そして眼鼻立は、子供がかいた様に単純で欲がない顔です。野の仏という言葉があるけれど、本当にそういった感じのお地蔵様です。そこで花子と一緒にとりました。  何枚も何回もとっているうちに、花子はお地蔵様の顔なんだな。と発見。花子の顔はぞんざいな造作で、お腹にいる時神様がチョンチョコチョンチョンと一筆がきしたのかもしれないわ。  その花子は毎日、宿屋の子供やお客の子供たちと、遊びくるっています。  空いている室で、椅子をつんだり、カーテンをひいたりして、�けいさつごっこ�というのが今年は流行しちゃって、犯人だの、署長だの、刑事だのになって大さわぎするのだけれど、のぞいたら、花子は警察犬になっているので、何とも情ないみたいです。  首のところにひもをつけて、署長がもっていて、とべ! なんていうと、喜んで坐布団をとんだりしているの。自分は本当に犬になった気持で、陶酔しているらしいの。  主人は、「花子はお人よしでバカで、いつも放心状態でいるから、大きくなったとたんに、すぐ男にだまされだめになります。」だってさ。  秋になったら又、お目にかかりませう。�かひがら�の集り、楽しみにしています。でも、高井戸だと、横浜からずい分遠くて東横線で渋谷まで戻ってくると、やっこらさ、と思うわ。 [#ここで字下げ終わり]    八月二十六日  前の号にも出てきたが、ここに出てくる花さんの遊びも幼ない頃の百合子さんのやり方に流儀が似ているのではないか。そこで選ぶ役は趣味がちがうだろうが、�お父さん遊び�と�けいさつごっこ�はどこか通じるものがあるのではないか。武田泰淳氏が花さんについて言ったという、�放心�という言葉にはどきりとした。�放心�といえばY氏の「放心の手帖」を思い出すが、たしか「未来の淫女」の中で馬屋光子がその言葉で形容されるところもあった。かつての自作の中でのセリフを、武田泰淳氏が娘にかさねて呟いたとすれば……そこまできて、私は自分の想念の世界から引き返した。     十二月二十日付 [#ここから1字下げ] [#地付き]武田百合子  十四日に主人が帰国して急に忙しくなり、もう暮まではこのまま忙しくなりっ放しでせう。(中略)  六本木も赤坂も、クリスマスがやってくるといった感じです。赤坂はひたすらもうけようといった感じですが、六本木は質素な外人夫婦や、きらびやかな支那の夫婦や子供連れが、静かにクリスマスのかざりを買い求めて帰って行きます。  肉の焼ける匂いやらガソリンの匂いやらして夕方は、昔の横浜のにぎやかだった頃のようです。この坂の向うに海が見える、と思えるのですが海はなく、ただぼんやりと灰色の町がひろがって東京タワーがあります。  この間はね、昼すぎひょっと人通りや車の絶える時間があるでせう。そんなとき曇って寒い六本木の坂を、美しい女の人が歩いてくるの。きれいだなあ、と立止ってみていたら、黒いオーバーに黒い毛皮のえり巻にあごをうづめて、足を心もとなそうにさせて坂を上ってくるのは、雪村いづみでした。あの人は今何を考えどんな気持で歩いているのかしら、そんな風に思わせるほどすてきでした。 [#ここで字下げ終わり]    では又。  これは昭和三十七年五月十五日発行の『かひがら』10号、これ以後の『かひがら』が一冊あったが、その昭和四十一年八月一日発行の15号には、百合子さんの文章はなかった。昭和四十四年には武田泰淳氏は五十七歳、百合子さんは四十四歳……武田泰淳氏の年譜を見ても、おそろしいほどの仕事量である。花さんの学校のこともあり、百合子さんが『かひがら』の集りに出席することを減らさざるを得なかったという可能性はある。あるいは、時間をみつけて集りには出席したものの、小林やよいさんへの手紙が途切れていたのか……いずれにしても、私が読むことのできた『かひがら』における百合子さんの文章は、以上ですべてだ。  百合子さんは、何かを伝えようとして目を瞠って喋っているとき、つねにここに収録した書簡のごとき味わいをただよわせていた。それが文章となるとなおさら際立ってくる。無造作に見えて緻密、神経が全体にゆきわたっている文章は、そこに書かれた対象が何であれ、すべて百合子色に染められていて、語り出しと終り方の結構が、つねにきちんとつながっているのであり、その芯に詩人の魂が流れている。  百合子さんは十代の頃、室生犀星が選評をやっていた『新女苑』の詩歌欄に投稿して入賞したことがある。おそらく十代の終り頃であろうと思われるが、女学校における小林やよいさんや百合子さんの恩師である浅山京先生から、最近、花さんのところに送られて来たという。花さんがそれをコピーして私宛に送ってくれたのだが、忘れ去られようとしていた百合子さんの断片が偶然に舞い込むというのも不思議なことだった。     去年の秋 [#ここから1字下げ]  去年の秋、小さい兄が征く朝、  深い霧が坂を流れてゐた。  ——皆様もお体をお大切に。私は  元気で征きます。——  水を打つた門に立つて  兄はあいさつをしてゐた。  止めても止めても父はきかなかつた。  よろめいて玄関の式台まで来  一人うづくまつてものかげで  兄のあいさつをきいてゐた  兄の制服の黒い姿にも  霧はとほつて行つた。  冷えた朝であつた。  父は頭をたれてゐた。静かにそのまま——  長い間、動かなかつた。動かなかつた。  痩せてゐた。  去年の秋、霧の流れてゐた朝に  兄は門に立つて征き  父は暗い式台にうづくまりうなだれてゐた。  冬を越し  春を越し、秋の立つ三日前  永くわづらつて父は死んだ。  兄は知らず、子供の様に知らず  〇〇から、お金の無心をいつてよこす。 [#ここで字下げ終わり]  室生犀星は選評に「『去年の秋』は久しぶりのよい詩です。やはりこの詩によつて見ても分るが、詩には文章描法の下地がいることが分る。詩は詩だけがよくでき上るといふことは、百のうち一つであつて、文もでき詩もできてはじめて作品が生れる。」と書いている。まさに『富士日記』にもあてはまる言葉である。  武田さんの作品は巨大な交響楽ですが、姉のはG線上のアリアですから、ちょっとしたことがずれてもすべてが壊れちゃうんです……これは、弟である鈴木修氏の言葉だ。骨太な八方破れのように見えて、実はそういう脆さ、儚さをはらんだ割れやすいガラスのごとき世界、それが百合子さんの文章の資質というものなのだ。それは、『かひがら』や新聞に載った十代の詩からも、武田泰淳氏と結婚したあとの小林やよいさんへの書簡にも、見事にあらわれているのである。  十代の頃のような鋭角的な詩は書かなくなったものの、『かひがら』の集りへ顔を出すことが、百合子さんにとっての秘密の時間だったのではなかろうか。発表すべき詩は書かなかったが、幻の投稿としての詩を百合子さんがずっと書きつづけていたという可能性だってあるだろう。その詩の群れもまた、花さんの手によって焼却されたトランクと茶箱の中身のひとつであるのかもしれない。百合子さんの完全犯罪だな……そんなことを思いながら、私は目の前に広げていた『かひがら』のバックナンバーから、ようやく目を外した。 [#改ページ]   第七章 百合子さんは何色?  ドアを入ると、アルゼンチン・タンゴの旋律と、なつかしい色合いの照明につつまれた。  私が学生であった昭和三十四、五年にはこういう照明の店が多かった。狭いわりに大勢が坐ることのできるよう、空間は通路くらいという感じで椅子が配列されていた。こんなあかりの中で、よくプロレス中継を見たものだった。私は、ソーダ水のストローをつつむ紙の筒を押しつぶして引き抜き、その上にテーブルの上においてストローで吸い上げた水を滴らせる、学生の頃の陰気な遊びを思い出した。水をかけられて圧縮された紙の筒が、ぐにゃぐにゃと不器用に背を伸ばす。その感じがイモ虫に似ているというだけのことだが、それがソーダ水を飲む前の儀式みたいになっていたのだった。  暗い青春というより、不気味な青春って感じだな……私は、かつて「ランボオ」であり昭和二十八年から「ミロンガ」という名になった店の中で、自分の学生時代へ意識が向おうとするのを押しとどめ、壁ぎわの棚に飾ってある小型のバンドネオンに目をやった。壁に架けられた白黒写真は、いま鳴っている曲の奏者だろうと、根拠なく決めて私はコーヒーをひと口啜った。  私立探偵よろしく百合子さんを追いつめていったつもりが、犯人の完全犯罪の奥深さにうっとりとしてしまい、黒蜥蜴に百合子さんをなぞらえ、明智小五郎に自分をあてはめようと思ったが、あまりにも多くの色を宙に舞わせる逃げ水のごとき犯人を、私はただただ茫然とながめている以外になかった。  そのあげく、犯行の現場というのではないが、百合子さんが一時期つとめていた神田のランボオへ、私はついふらふらと足を向けていた。ランボオからミロンガへと名前が変り、内装も新しくなった部分があるが、建物自体は当時のままであるという、埴谷雄高氏の言葉が耳に残っていたせいかもしれなかった。  戦後すぐに出来たランボオの名は、アルチュール・ランボオからとったのだという。戦後派作家のたまり場になったのは、その名の魅力もさることながら、ひそかに酒を売っているというのが最大のメリットだった。そのランボオのあとはセレーネという店で、そしてさらに朝鮮人の経営した店に移って、百合子さんは転々として働きつづけていた。だが、何といっても武田泰淳氏との出会いの場所はこのランボオなのだ。  レジをはさんで左右に喫茶室があるといった感じで、私は左手の音楽が聴きやすい席に坐ったが、ちょっと覗いた右手の方に常連らしい人が多く、おそらく造りが同じであったら戦後派作家たちは奥にたむろし、彼らに憧れる若手の物書き志願は、私と同じような席に陣取って、じっと奥の話に聞き耳を立てていたのではなかろうか。  床や壁の一部が古いレンガのままになっていて、それはおそらく百合子さんの靴が踏んだレンガだろう。丸太の柱も、ランボオ時代からあったにちがいない。そしてこの照明……タンゴはミロンガ時代からだそうで、ミロンガは昭和二十八年からずっとタンゴを鳴らしつづけてきた店なのだ。支払いのわるい作家たちの溜り場となったランボオは、店の風景は贅沢ながら経営が立ちゆかず、ミロンガとしてお色直しをしてしまった。だが、コーヒーを啜りながらぼんやりしていると、ミロンガの風景の向うに、ランボオのざわめきがおぼろげに見えてくるようだった。  武田泰淳、椎名麟三、埴谷雄高、竹内好、石川淳、寺田透、中村稔、遠藤周作、吉行淳之介、いいだももといった人々、そして出版社の社長、社員、印刷業者、ブローカー、それにY氏……店にたむろする作家や詩人の顔の中に、Y氏も混っている。薄暗くややオレンジがかった照明の中を、百合子さんが客席を縫うように移動してゆく。客たちの目が百合子さんに注がれ、百合子さんはそれぞれの席で思いつくままの言葉を口走り、客たちはそれを面白がって笑い、拍手し、酒をあおり、わめき合う。そんな幻想のけしきが、しばらく私の中にひろがっていた。  だが、この店は平成のミロンガであり戦後のランボオではない。ここへやってきても何も探り出すことはできませんぞ……アルゼンチン・タンゴの旋律が、私を現実に引きもどした。すると、武田泰淳氏が亡くなって一年ほど経った頃、赤坂コーポラスに近いギャロップという店で、八代亜紀の「おんな港町」を歌っている百合子さんが、記憶の中から立ち上ってきた。おんな港町 どうしてこんなに夜明けが早いのさ それじゃさよならと 海猫みたいに男がつぶやいた……百合子さんの歌は、喋っているときと同じように、明るく、強く、大きい声だった。百合子さんの歌がけっこう上手だとほめると、「あら、そう?」うれしそうに言ってビールを飲み干していた。まだ、調子よくビールを飲んでいる時期だった。 (あれは、百合子さんに小説を書かせようと口説いていた頃だった……)  私は、『富士日記』を一読して、すぐに次は小説だと意気込んだ。だが、百合子さんは頑固に小説を書くというテーマを先へ先へと延ばしていった。  私が中央公論社を辞めて、物書きの端くれとなっても、百合子さんが小説を書いたら凄いぞという気持は消えず、会うたびに口説いてみるのだが、百合子さんはうれしそうに笑って生返事をするばかり、ノレンに腕押しとはこのことかと苛立ったあげく、色川武大氏と二人で「百合子さんに小説を書かせる会」というのをつくった。色川武大氏も百合子さんの文章の虜となっていたひとりだった。この会は、会長が色川武大氏で副会長が私、そして会員はゼロという構成だった。つまりは百合子さんと飲むための口実めいた会だったが、ふたりともその会の折には、百合子さんに対して小説書きを説得する使命を忘れなかった。だが、ふたりがかりで攻めたてても、百合子さんのうれしそうな顔も、生返事も同じだった。そして百合子さんは、ついにそのままこの世からいなくなってしまった。  しかし、小林やよいさんにお借りした『かひがら』の中の文章や詩と出会ったとき、百合子さんに小説を書かせようというのは、やはり無いものねだりだったのだと痛感した。あそこに載った百合子さんの文章の芯にあるのは詩人の魂であり、小説として読むこともできたし、芝居の登場人物の長ゼリフとして読むこともできたし、小林やよいさんという気をゆるした親友に送った手紙として読むこともできた。発する言葉が、すでにフィクションの衣を纏っているのであって、そのフィクションに額縁をかぶせ、何のジャンルであるかを決める必要のない、無垢なマグマのごとき世界なのだ。  日記↓随筆↓小説という矢印は、今回ぐるぐると百合子さん世界の旅をしたあとで思えば、いささか文壇的というか、出版業界的な発想であったかもしれないのだ。百合子さんにはやり残したことはひとつもない……それが私立探偵の物腰で百合子さんを追跡してみたあげくに、私が得た答えだった。例の、トランクと茶箱の中身を焼くことによってすべてを消し去った完全犯罪も含めて、である。  でも……と、そのように思いが落着したにもかかわらず、もし百合子さんが小説に腰を上げたら、それは私などが想像している概念を、粉々に打ち砕いてくれる作品であるにちがいないのであり、惜しかったという気持が再浮上する。埴谷雄高氏もまた、私とはちがったレベルで、百合子さんに小説を書いてほしいと希われていたようだ。 [#ここから1字下げ]  武田がなくなってから、百合子さんはいろいろ書いてですね、たしかに大天才であるということを証明したけれども、残念なのは小説を書かなかったこと。小説を書け書けと僕は言ったんだけど、ついに書かなかった。あまり僕がいったんで、女学校時代に学校か家か覚えがないんですけど、屋根の上に乗ってほうぼう眺めている、あそこの場面でも書こうかな、と僕に言ったんですよ。あれ、これは小説を書いてくれる。それに、屋根の上に乗っている場面というのは、とても素晴らしいと思ったんですが、やはり小説を書かないうちに死んじゃった、残念ながらね。エッセイばかりですよ、書いたのは。でも、すごいものばかりですがね。  百合子さんにどうしても小説を書いてもらいたかったのはですね、本当に大きく広がった百合子さんだから、奇想天外な発想が出てくるんじゃないかってね。百合子さんが書けば、これまでの日本の女流作家の書かなかった、まったくちがったものを書いていたはずですよ。 [#ここで字下げ終わり]  百合子さんが『富士日記』を発表したときの批評にも、百合子さんが亡くなったときの「朝日新聞」の記事にも、百合子さんの文章について武田泰淳氏と共に生活したことによる影響という角度の受け取り方があった。このアングルは、全面的に否定されるものではないかもしれない。武田泰淳氏という存在の大きさは、時間をかさねて共に生きていた百合子さんに、強い影響を与えなかったということなどあり得ないだろう。だが、こと文章に関してという刻み方をしてみると、百合子さんの武田泰淳氏からの影響の受けなさかげんに、むしろ目を瞠らないわけにはいかないのだ。  武田泰淳氏の大きさ、強さを思えば思うほど、その存在の放射能を日常的に浴びながら、ついに自らの詩人の魂を守り通したことは、百合子さんの武田泰淳氏と拮抗する才能の強さ、意志の強さの証しだろう。その原点は、ランボオをも戦後の時間をも、女学校をも屈折の家庭をも突き抜けて、�鈴弁�とはちがう筋道を何代も辿り直さなければ見つからない地平にあるのかもしれない。となれば、百合子さんの色はますますつかみにくく、靄の中へ紛れ込んでしまうばかりである。  アルゼンチン・タンゴの旋律が、ふたたび私を幻想から引きもどし、ミロンガのけしきがよみがえった。  モカ・ジャバ、チーズケーキ、スパゲッテ・コーヒー、アイスコーヒ……壁にある品書きをながめたあと、私はトイレに立った。奥の席でビールをちびりちびりやっていた客が、ちらりと私を見上げたが、すぐにグラスに目をもどした。その男は、靴を脱いだ片足を半分胡坐のように折り曲げて椅子に乗せていた。ビールを飲むかたちが、ちょっと弁天小僧みたいになっていた。百合子さんなら極め付の描写をするんだろうな……私は、トイレの扉を開けながら胸の内で呟いた。 [#ここから1字下げ] 「わたし昨日の晩、天皇陛下と結婚しちゃったの」ある晴れた朝、彼女は楽しげに、生き生きとした笑顔で私に語った。「天皇陛下っていいわね。いつでもニコニコして、何でもフンフン言うこときいてくれて。場所はとても景色のいい野原なのよ。草が茫々と茂っていてね。野花も咲いていてね、とても気持のいいところなの。男は天皇のほかに宮様が二人、女もわたしのほかに二人なのよ。三人の中ではやっぱり天皇が一番立派だったな。女の中ではわたしが一番綺麗なのよ。その日は見あいだったのね。いよいよ決めるときになったら天皇がスウッとわたしのところに来て、すぐ決っちゃったの。他の女のひと、うらやましかったらしいけどね。それから手をつないで野原を歩いて行ったら、天皇はとても満足して、ニコニコ、ニコニコしてるのね。それからわたし裸になってダンスしたり、さかだちしたり、曲芸したりして天皇を楽しませてやった」 「そしたらどうした?」 「そしたら、やっぱりニコニコ、ニコニコしてたわ。それだけよ。それでおしまい。わたしほんとは皇太子殿下が好きなんだけどな」  夢みることは自由である。ことに光子の夢は明るく単純に、貧困にしてたよるものなき彼女をして、はなやかな気分を味わわせてくれて申し分ない。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き](武田泰淳「メサの使徒」)  ミロンガのトイレは、やはりランボオのトイレと同じ位置にあるのだろう。洗面所の正面に張りつけられた鏡は、まさかランボオ時代のものでもあるまいが、やや小さめのかたちが、いまどきの喫茶店の鏡にくらべて、レトロの匂いをかもし出していた。床はともかく、壁のタイルもミロンガとなったときに新しくしたのだろうが、ランボオ時代の趣きを踏襲したのではないか。何となく、病院のトイレにあるタイルというイメージだった。 (百合子さんには、武田泰淳を自分の色に染めていたようなところもある……)  私は、不意にそのことを思った。かつて、�面白い女�として武田泰淳作品の素材にすぎなかった百合子さんは、その後の武田泰淳氏との生活の中で、「メサの使徒」における天皇と結婚する夢のごとき、奇想天外な発想を次々と口にしたことだろう。それはあたかも、�鈴弁�との血のつながりが本当はなかったことへ武田泰淳氏の神経が向うのを防ぐかのように、次から次へと無尽蔵に噴射されていたにちがいない。フィクションの上にフィクションを……そうやって百合子さんは武田泰淳氏にとって、単に作品の素材としての面白さである存在を超えて、刺激ある人生の同伴者になっていった。  百合子さんの出自や境遇ではなく、百合子さんという稀有なる感受性のレーダー、発想のマグマが、作家としての武田泰淳氏に影響を与えてゆく……そんな筋道がたしかに見えるのだ。百合子さんの色に染められた武田作品と染められていない武田作品の比較は、評論家の仕事ということになるのだろう。武田泰淳氏が亡くなり、百合子さんが『富士日記』を書くまで、少なくとも武田作品にとっての百合子さんというアングルは、評論家からはいっさい提出されていなかったのではなかろうか。『富士日記』の発表においてはじめて、百合子さんの才能が注目を浴びたのであり、武田泰淳氏の生前は自分の存在を�妻�という立場に隠し込み、夫の文学への影響など微塵もない妻を、世間に向っては演じつづけていた。これもまた、脱帽すべき百合子さんの完全犯罪といえるのである。  その百合子さんの�犯行�の現場のひとつであるランボオ、いやミロンガに私は小一時間ほどぼんやりと坐っていた。アルゼンチン・タンゴの曲を何曲聴いたのかも分らぬまま、私はこれまで洗い直してきた百合子さんの色を考えた。  赤橙黄緑青藍紫の色板に光を当てて回転させれば、色彩はしだいに白になってゆく。ゆっくりと回転しているとき、ちらり、ちらりと見えた黄や緑が、見るまに白い色に溶け込んでゆくのだ。だが、白いキャンバスの上に赤橙黄緑青藍紫の色を次次に塗ってゆけば、キャンバスはしだいに黒い色に染ってゆく。百合子さんの色を探るために、私はさまざまなアングルを刻んでみた。ところが、それぞれのアングルから導き出される百合子さんの色は、そのたびごとにちがっているのだ。けっきょく、そんな百合子さんの目眩ましの中で、私は茫然と立ちつくすしかなかった。 (現場に証拠を残すレベルの犯人ではなし……)  私は、私立探偵もどきに虫眼鏡片手に右往左往していた自分を嘲笑する気分で、かつてのランボオであるミロンガの外に出た。入るときに小路の塀によりかかってしゃがみ、ミロンガの建物をじっと見上げていた男が、まだそこにいた。コートの裾が地面に触っているのも気にせず、男は私と目が合うのを避けるように俯いている。こんな為体の知れぬ男たちが、かつてはごろごろしていたんだろうな……私は、あらためてミロンガとなったランボオの建物をふり返った。  そこだけ見れば、まさに戦後の風景だった。壁にトタンを張りつけたのが、赤茶色になったあげく、何度も風雨にさらされて煤けきっていた。下の壁はレンガ張りになっているのだが、そのレンガももとの色が想像できぬほど、時代の風に晒されつづけたあとを見せている。奇妙な匂いをもった風が小路を突っ走ってきて、私を一巻きしてどこかへ抜けて行った。その行方を追おうとした私は、不意に首筋あたりに痙攣をおぼえ、ゆっくりとミロンガのドアをふり向いた。ドアのガラスの向うから、じっと私をみつめている目があったような気がしたからだった。 (百合子さん……)  中から覗いている二十代の百合子さんが、自分に向って手招きをしている貌を思い浮べ、ふとドアに手をかけてみたが、それはもちろん私の幻想遊びだった。喫茶店の名はランボオではなく四十年も前からタンゴを鳴らしているミロンガ、百合子さんは一年も前にこの世を去っているのだ。風がまた、小路の向うから、私に狙いを定めている。その風に対してどんな構えをつくったらよいかもつかめぬまま、私はゆっくりと小路の向うへ目を向けた。風と思ったのは、どこからともなく迷い込んだ犬だった。戦後のけしきに近い小路の中を歩いて来た犬は、無邪気な表情で私の前を通り過ぎて行った。それを見送っている私の首筋を、犬を追いかけて走ってきた一陣の風が、素っ気なく撫でていった。私は、風の残した妖しい匂いにつつまれて、白い犬のうしろ姿に目を凝らした。すると、夕暮どきの小路の風景がゆっくりと回転し、やがて真っ白い世界に変貌していった——。 [#ここから1字下げ]  七月十八日(火)快晴、夕方少し雨 雷鳴  ポコ死ぬ。六歳。庭に埋める。  もう、怖いことも、苦しいことも、水を飲みたいことも、叱られることもない。魂が空へ昇るということが、もし本当なら、早く昇って楽におなり。  前十一時半東京を出る。とても暑かった。大箱根に車をとめて一休みする。ポコは死んでいた。空が真青で。冷たい牛乳二本私飲む。主人一本。すぐ車に乗って山の家へ。涙が出っ放しだ。前がよく見えなかった。  ポコを埋めてから、大岡さんへ本を届けに行く。さっき犬が死んだと言うと、奥様は御自分のハタゴを貸して下さった(七月十九日に書く)。  七月十九日(水) 晴 三時頃より雷雨夜一時止む。また小雨となる。  昨夜、何度も眼が覚め、覚めると、しばらく泣いた。  朝、陽があたっている。  朝 ごはん、佃煮、油揚げつけ焼、大根おろし、味噌汁、のり、卵。  ポコの残していったもの、篭と箱と櫛をダンロで焼く。土間に落ちているポコの毛をとって、それも焼く。何をしても涙が出る。  昼 ハムサンド とりスープ、紅茶。  主人の顔をみないようにしている。主人も私の顔をみないようにしている。お互いに口をきかないようにしている。  遅くにゴミを棄てに表へ出る。まだ、ポツリポツリと沁みこむように雨は降っている。  ポコは、あの潅木の下の闇に、顔を家の方へ向けて横たわって埋まっている。昨夜遅くなってから、よく寝入ったときのすすり上げるような寝息がひょっと聞えたように思ったが、それは気のせいだ。ポコ、早く土の中で腐っておしまい。  河口の酒屋で。煮豆、角砂糖、ほうじ茶、小豆あん、合計三百九十円。ビール一打、鑵ビール一箱合計三千三百円。(『富士日記』より) [#ここで字下げ終わり] [#地付き](了) [#改ページ]   あとがき  武田百合子さんという存在を追求してゆくうち、ふとオーソン・ウェルズ監督の「市民ケーン」を思い出した。あの映画は、�新聞王�といわれた男が、死のまぎわに口走った�薔薇のつぼみ�というキーワードを、ひとりの新聞記者が徹底的に追求し探ってゆく物語だった。結局、�薔薇のつぼみ�は、新聞王が幼児の頃に遊んだ雪ぞりの背に描かれていた絵のことだった。そのことによって新聞王の謎がどのように解明されたのだったか、そのあたりの記憶はあいまいだ。だが、功なり名遂げた男が、死にさいして雪ぞりの背に描かれた�薔薇のつぼみ�の絵のことを口にしたという結末には、そこから冒頭に戻ってあらためて物語を辿り直さなければなるまいというインパクトがあった。  私にとって今回の作業は、武田百合子さんにとっての�薔薇のつぼみ�を探し求める旅のようなものだった。  長女である写真家の武田花さんに、百合子さんは生前ひとつのことを言い遺していた。いや、娘に命じていたといった方が正しいのかもしれない。それは、�自分が死んだら茶箱とトランクの中身を焼くこと�という言葉だった。そして百合子さんの死後、花さんは母との約束通り茶箱とトランクの中身を焼却した。茶箱とトランクには、「焼却のこと」と書いた紙が貼りつけてあったという。  つまり、私は百合子さんの�薔薇のつぼみ�がこの世から消え去ったところから、この作業をスタートさせることになったのだった。失われたキーワードを求めて、私は「市民ケーン」における新聞記者のごとく、執拗に手がかりを求めて歩いた。その物腰は、新聞記者というよりもどちらかといえば私立探偵のものであったかもしれない。  光り輝いていた中に、どこか自閉症の少女のごとき怯えが見え隠れていた百合子さん……その百合子さんの本当の色は何色なのか。手に入るかぎりの資料を読み、百合子さんについて語ってくれる人を探し求めてその色を探したが、そのたびに百合子さんは微笑みながら遠ざかった。それでも、逃げ水のごとき百合子さんを追ってゆくうち、私の目にさまざまな色が映じてきた。だが、その色の向う側にはまたちがう色が隠れていて、焦り、あがき、もがきながらも私は何とか百合子さんについてゆこうとした。  そうやって百合子さんというフィクションの中を旅した私だったが、最後のところにはやはり茶箱とトランクが残った。すでに中身が消えているトランクの中を、私はあらためて覗き込んだ。すると、そこにひとつのキーワードを書きつけた紙が残っているような気がした。それはもちろん私の幻想だったが、その紙に記された文字は「詩人の魂」と読めた。  それを手がかりに、私がさらに奥へと目を凝らすと、そこに百合子さんの顔が浮び、たしなめるように微笑んだ。私は、はっと我に返って筆を擱《お》いた——。  百合子さんの色は、ついに絞り込むことができなかった。だが、この旅は「市民ケーン」の新聞記者よりはるかに贅沢で、スリリングな旅だった。それは、私のために、御自身にとって大切な存在である百合子さん像を語って下さった、埴谷雄高さん、武田花さん、鈴木修さん、小林やよいさん、加藤治子さんのおかげだった。お礼の言葉もみつかりません。それに百合子さんの�薔薇のつぼみ�たる同人誌『かひがら』を、戦後のどさくさの中から奇跡的に守り抜いて下さった金井亭子さんには感謝の気持でいっぱいです。  また、覆面姿で登場していただくようなかたちとなったY氏については、いっさい触れぬか直接お目にかかってお話をうかがうという方法もあったが、実の弟である鈴木修さんの言葉とすでに発表されている作品の中に、何かを探すという方法を選んだ。そして私は、Y氏と百合子さんを結ぶ点線の中に、�薔薇のつぼみ�への重大な手がかりを得たように思った。私の勝手な役づくりの中に巻き込んでしまったY氏には、この場を借りてお詫びを申し上げたいと思う。  すべてを書き終ったとき、私は無性に百合子さんに会いたくなった。百合子さんの魅力が、私の中で何倍かに膨れ上っていたからだった。百合子さんの色を追い求めているうち、私もまた百合子さんのトリコの一人になってしまったのである……。    一九九四年六月二十五日 [#地付き]村松友視 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  ≪武田百合子略年譜[#「武田百合子略年譜」はゴシック体]≫ 鈴木修  大正十四(一九二五)年[#「大正十四(一九二五)年」はゴシック体] 九月二十五日、神奈川県横浜市神奈川区栗田谷十二番地にて、父・鈴木精次、母・あさのの間に生まれる。異母兄姉に豊子、敏子(大正十二年七月二十四日死去)、新太郎。兄に謙次郎。以後、昭和三年に弟・進、昭和六年に弟・修、出生。  昭和七(一九三二)年 七歳[#「昭和七(一九三二)年 七歳」はゴシック体] 四月、神奈川県横浜市栗田谷尋常小学校入学。七月十三日、母・あさの死去。以後、母方の大叔母・樫本みつが母代わりとして一家に入る。  昭和十三(一九三八)年 十三歳[#「昭和十三(一九三八)年 十三歳」はゴシック体] 四月、神奈川県立横浜第二高等女学校入学。  昭和十七(一九四二)年 十七歳[#「昭和十七(一九四二)年 十七歳」はゴシック体] 八月、長兄・新太郎結婚。この頃、樫本みつ、鈴木家を辞去。  昭和十八(一九四三)年 十八歳[#「昭和十八(一九四三)年 十八歳」はゴシック体] 三月、同女学校卒業、学校の推薦で高等師範付属図書館に勤務。この頃、父・精次、病に臥し、自宅療養。長兄・新太郎は陸軍戦車兵として、次兄・謙次郎は海軍予備学生として出征。新太郎の妻は実家に戻ったため、父の看護のため住み込みの看護婦・村山を雇う。この看護婦は父に気に入られ、百合子と終戦まで生活を共にすることとなる。  昭和十九(一九四四)年 十九歳[#「昭和十九(一九四四)年 十九歳」はゴシック体] 八月、父・精次死去。鈴木家は百合子と弟の進、修と、看護婦・村山の四人となる。横浜市神奈川区旭が丘に居住する姉・豊子の夫・山鹿浩が財産管理の後見人となる。  昭和二十(一九四五)年 二十歳[#「昭和二十(一九四五)年 二十歳」はゴシック体] 五月二十九日、午前、B29による横浜絨毯爆撃により、家屋家財全焼。百合子は弟・修と看護婦の村山とともに逃げ遅れ、水深八〇センチほどの庭の池の中で猛火に耐え、奇跡的に生き延びる。六月、焼け残った姉の嫁ぎ先山鹿家を一時頼るが、百合子、修、看護婦の三人は、旬日を出ずに父・精次が買い置いた山梨県都留郡田野倉の札金温泉に疎開。麓から三十分以上山道を登る鉱泉で、麓の農家に管理を委託して細々と旅館業を営んでいたため、家財一切を失った一家には幸いした。麓の尼寺に陸軍の小隊が駐屯、ガソリン代替の松根油採取を任として、毎日松根を掘りに山へ分け入り、休憩に温泉を訪ねるようになった。この小隊長が京大出身の温厚な人格者で、鈴木一家をそれとなく保護してくれた。この間、進は山鹿家に寄宿。 八月十五日、終戦。兄たちが復員。全員、疎開先を引き上げる。百合子は姉の夫・山鹿浩が病臥していたため、手伝いとして横浜の山鹿家に寄宿。弟・修は長兄・新太郎の妻の実家、東京世田谷区へ寄宿。看護婦の村山は鈴木家を辞去。  昭和二十一(一九四六)年 二十一歳[#「昭和二十一(一九四六)年 二十一歳」はゴシック体] 二月、山鹿浩死去。しばらく後、百合子山鹿家を辞して長兄のもとへ。鈴木家は長兄・新太郎と妻、次兄・謙次郎、弟・進、修が同居することとなる。  昭和二十二(一九四七)年 二十二歳[#「昭和二十二(一九四七)年 二十二歳」はゴシック体] 一家は不在地主のため没落する。札金温泉や横浜の土地を売り、長兄宅に寄食していたため、その日の糧に困る状況ではなかったが、百合子は出版社や作家の秘書などの仕事を転々とし、化粧品やチョコレートの行商などもする。この頃、世代の会同人に参加するが、寄稿はせず。この年、神田の出版社・昭森社に勤務、森谷社長の経営する階下の喫茶店兼酒場ランボオにも勤め、武田泰淳と知り合う。昼は姉・豊子が夫の死後始めた鈴木家菩提寺妙蓮寺の境内での露店の食物屋を手伝ったりしていた。  昭和二十三(一九四八)年 二十三歳[#「昭和二十三(一九四八)年 二十三歳」はゴシック体] 五月、鈴木家を出て、神田で泰淳と同棲。一時、神田小川町の不動産屋の階上にも住む。  昭和二十六(一九五一)年 二十六歳[#「昭和二十六(一九五一)年 二十六歳」はゴシック体] 前年より、杉並区天沼に転居。十月三十一日、長女・花誕生。十一月、出生届とともに入籍。  昭和二十七(一九五二)年 二十七歳[#「昭和二十七(一九五二)年 二十七歳」はゴシック体] 神奈川県江の島に転居。東京外国語大学ロシア科を卒業して八丈島で教員をしていた弟・修を、この年、泰淳が訪問。翌年、一月、目黒区中目黒の長泉院に、昭和三十二年、杉並区上高井戸に、昭和三十五年、港区赤坂氷川町に転居。  昭和三十九(一九六四)年 三十九歳[#「昭和三十九(一九六四)年 三十九歳」はゴシック体] 八月、山梨県南都留郡鳴沢村富士桜高原に山荘が完成。以後、週の半分をここで過ごす。  昭和四十四(一九六九)年 四十四歳[#「昭和四十四(一九六九)年 四十四歳」はゴシック体] 六月十日から七月四日まで、竹内好、泰淳と共に、ロシア各地と北欧諸国を旅行。  昭和五十一(一九七六)年 五十一歳[#「昭和五十一(一九七六)年 五十一歳」はゴシック体] 十月五日、泰淳、胃ガンおよび転移した肝臓ガンにより死去。享年六十四。  昭和五十二(一九七七)年 五十二歳[#「昭和五十二(一九七七)年 五十二歳」はゴシック体] 『富士日記』を中央公論社より刊行(田村俊子賞受賞)。  昭和五十四(一九七九)年 五十四歳[#「昭和五十四(一九七九)年 五十四歳」はゴシック体] 『犬が星見た——ロシア旅行』を中央公論社より刊行(読売文学賞受賞)。  昭和五十九(一九八四)年 五十九歳[#「昭和五十九(一九八四)年 五十九歳」はゴシック体] 『ことばの食卓』を作品社より刊行。  昭和六十一(一九八六)年 六十一歳[#「昭和六十一(一九八六)年 六十一歳」はゴシック体] 西ドイツを旅行。  昭和六十二(一九八七)年 六十二歳[#「昭和六十二(一九八七)年 六十二歳」はゴシック体] 『遊覧日記』を作品社より刊行。  平成四(一九九二)年 六十七歳[#「平成四(一九九二)年 六十七歳」はゴシック体] 『日日雑記』を中央公論社より刊行。  平成五(一九九三)年[#「平成五(一九九三)年」はゴシック体] 五月二十七日、肝硬変のため死去。享年六十七。 村松友視(むらまつ・ともみ) 一九四〇年、東京に生まれる。慶應義塾大学文学部を卒業。一九六三年、中央公論社に入社。『小説中央公論』『婦人公論』『海』編集部を経て、一九八一年退社。在社中の一九八〇年に『私、プロレスの見方です』を刊行。一九八二年『時代屋の女房』で直木賞を受賞。一九九七年『鎌倉のおばさん』で泉鏡花文学賞受賞。他にも『夢の始末書』『上海ララバイ』『芝居せんべい』『アブサン物語』『トニー谷、ざんす』『マカオの男』など多数の著書がある。 本作品は一九九四年九月、筑摩書房より刊行され、一九九七年一二月、ちくま文庫に収録された。